泣けるまぁちゃんねる

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みなさんの可能性は無限大です



2年前、駅構内に設置された駅員さんから受験生に向けたメッセージが話題になった郡山駅で、今年もセンター試験前日の1月12日、駅内に黒板が掲示され大きな話題にはなりましたので紹介します



受験生のみなさまへ

いつもJR郡山駅をご利用いただきありがとうございます。

いよいよセンター試験ですね。

私も数年前に緊張しながらセンター試験に臨んだことを覚えています。

みなさんと同じように朝から晩まで問題集と向き合い、友達と励まし合いながら当日を迎えました。

きっとみなさんには夢があると思います。

目指す職業がある、学びたい専攻がある、一人暮らしをしてみたい、東京に出たい……何でも良いと思います。

思い描くキラキラした夢をぜひ自分のものにしてください。

私自身、受験生の頃に持っていた夢は叶えられませんでした。

しかし、大学に進学して、新しいことを学び、見て、沢山吸収できたのは自分の財産になっています。

そして、今こうしてJR東日本の社員として働いていることを誇りに思っています。

みなさんの可能性は無限大です!!

支えてくれた家族、友人、先生、最後は自分を信じて力を発揮してきて下さい。

みなさんに少しでも力を分けることができたら幸いです。

郡山駅社員一同応援しています。

平成30年1月郡山駅社員一同



今回もこれにまつわる紹介があり
郡山駅によると、センター試験当日に応援メッセージが書かれたポケットティッシュやカイロを配布。それに合わせて、黒板メッセージも設置したそうです。

 「昨年入社した新人の女性駅員が『書きたい』と申し出たんです。内容は若い人の感性に任せました」

 郡山駅では、2年前の2016年にも黒板メッセージを設置。「あの頃抱いていた夢は叶えることができませんでしたが、道はひとつではありません」という内容で話題になりましたが、今回書いた駅員さんとは別人だそうです。

 「当時の駅員はすでに異動しており、郡山駅にはいません。今回書くにあたって、2年前の内容を見るかどうか声をかけましたが、『オリジナリティーが出ないから』と見ませんでした。それだけに、書き上がったものを見て驚きました」との事

 今回書かれていた「受験生の頃に持っていた夢」については、あえて尋ねていないそうです。

 話題になったことについては「このメッセージを見た受験生がリラックスして、夢に向かって一歩踏み出してくれたならうれしいです」との事です。
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  1. 2018/01/20(土) 15:33:29|
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あずさからのメッセージ

是松いづみ(福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)

十数年前、障がいのある子がいじめに遭い、多数の子から殴ったり蹴られたりして亡くなるという痛ましい事件が起きました。

それを知った時、私は障がい児を持った親として、また一人の教員として伝えていかなくてはならないことがあると強く感じました。

そして平成十四年に、担任する小学五年生の学級で
初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」という授業です。

梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。

梓が大きくなっていくまでの過程を子供たちへの質問も交えながら話していったところ、ぜひ自分たちにも見せてほしいと保護者から授業参観の要望がありました。

以降、他の学級や学校などにもどんどん広まっていき、現在までに福岡市内六十校以上で出前授業や講演会をする機会をいただきました。


梓が生まれたのは平成八年のことです。
私たち夫婦はもともと障がい児施設でボランティアをしていたことから、我が子がダウン症であるという現実も割に早く受け止めることができました。

迷ったのは上の二人の子たちにどう知らせるかということです。
私は梓と息子、娘と四人でお風呂に入りながら

「梓はダウン症で、これから先もずっと自分の名前も書けないかもしれない」と伝えました。

息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、
しばらくしてこんなことを言いました。

さあ、なんと言ったでしょう?

という私の質問に、子供たちは

「僕が代わりに書いてあげる」

「私が教えてあげるから大丈夫」

と口々に答えます。

この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさが
グッと引き出されるように感じます。

実際に息子が言ったのは次の言葉でした。


「こんなに可愛いっちゃもん。
 いてくれるだけでいいやん。
 なんもできんでいい」。


この言葉を紹介した瞬間、子供たちの障がいに対する認識が少し変化するように思います。


自分が何かをしてあげなくちゃ、と考えていたのが、いやここにいてくれるだけでいいのだと価値観が揺さぶられるのでしょう。


さて次は上の娘の話です。

彼女が

「将来はたくさんの子供が欲しい。
もしかすると私も障がいのある子を産むかもしれないね」

と言ってきたことがありました。私は

「もしそうだとしたらどうする?」

と尋ねました。

ここで再び子供たちに質問です。
さて娘はなんと答えたでしょう?


「どうしよう……私に育てられるかなぁ。お母さん助けてね」。


子供たちの不安はどれも深刻です。
しかし当の娘が言ったのは思いも掛けない言葉でした。


「そうだとしたら面白いね。
 だっていろいろな子がいたほうが楽しいから」。


子供たちは一瞬「えっ?」と息を呑むような表情を見せます。
そうか、障がい児って面白いんだ──。


いままでマイナスにばかり捉えていたものをプラスの存在として見られるようになるのです。


逆に私自身が子供たちから教わることもたくさんあります。


授業の中で、梓が成長していくことに伴う「親としての喜びと不安」にはどんなものがあるかを挙げてもらうくだりがあります。


黒板を上下半分に分けて横線を引き、上半分に喜びを、下半分に不安に思われることを書き出していきます。


中学生になれば勉強が分からなくなって困るのではないか。
やんちゃな子たちからいじめられるのではないか……。


将来に対する不安が次々と挙げられる中、こんなことを口にした子がいました。


「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」。


理由を尋ねると


「だって勉強が分からなくても周りの人に教えてもらい、分かるようになればそれが喜びになる。
意地悪をされても、その人の優しい面に触れれば喜びに変わるから」。


これまで二つの感情を分けて考えていたことは果たしてよかったのだろうかと、自分自身の教育観を大きく揺さぶられた出来事でした。


子供たちのほうでも授業を通して、それぞれに何かを感じてくれているようです。


「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、きょうの授業を思い出してしっかり育てていきます」と言った子。


「町で障がいのある人に出会ったら、自分にできることはないか考えてみたい」と言う子。


「私の妹は実は障がい児学級に通っています。
凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。
でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」


と打ち明けてくれた子。
その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。


「“お母さん、なんでこの子を産んだの?”と私はいつも責められてばかりでした。でもきょう、“梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、ちょっとは優しくできるかもしれんよ”と、あの子が言ってくれたんです……」。


涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら私も思わず胸がいっぱいになりました。


授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を朗読します。



「あなたの息子は

 あなたの娘は、

 あなたの子どもになりたくて生まれてきました。

 生意気な僕を

 しっかり叱ってくれるから

 無視した私を

 諭してくれるから

 泣いている僕を

 じっと待っていてくれるから

 怒っている私の話を

 最後まで聞いてくれるから

 失敗したって

 平気、平気と笑ってくれるから

 そして一緒に泣いてくれるから

 一緒に笑ってくれるから

 おかあさん

 ぼくのおかあさんになる準備をしてくれていたんだね

 私のおかあさんになることがきまっていたんだね

 だから、ぼくは、私は、

 あなたの子どもになりたくて生まれてきました。」


上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、お互いに学生時代、障がい児施設でボランティアをしていたからと答えたところ


「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる
 準備をしていたんだね」


と言ってくれたことがきっかけで生まれた詩でした。


昨年より私は特別支援学級の担任となりましたが、梓を育ててくる中で得た多くの学びが、いままさにここで生かされているように思います。


「お母さん、準備をしていたんだね」
という娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。

  1. 2017/01/07(土) 21:12:05|
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わたしには夢がありました

引用


受験シーズンになると駅や街頭で受験生を励ますメッセージが見受けられます
センター試験の当日、ある駅で素敵なメッセージが書いてあり話題になりました



平成28年1月 受験生のみなさまへ

いつもJR東日本郡山駅をご利用いただきありがとうございます。今、このメッセージを書いている私も、数年前はみなさんと同じように受験生でした。その頃、私には夢がありました。

学校ではもちろん、帰宅後もたくさん勉強しました。通学途中の電車での数分間も友だちといっしょに予習・復習。

時には、参考書を片手にうたた寝をして降りる駅を寝過ごしてしまうなんてこともありました。

そして迎えた試験当日。最後まであきらめず全力で取り組みました。

現在私は、駅員のひとりとして働いています。これから夢に向かうみなさんのために駅での仕事を通して微力ながらもお力添えができれば幸いです。そして、そのような仕事に出会えたことを誇りに思っています。

残念ながら、あの頃抱いていた夢は叶えることができませんでしたが、道はひとつではありません。

みなさんが今持っている夢や目標のために、ぜひ全力で取り組んでほしいと思います。きっと何かが見えてくるはずです。

郡山駅社員一同、心より応援いたしております。

郡山駅



これが当時かなり話題になり書いた職員さんのインタビューがあったのであわせて紹介します



こうした言葉にはどんな思いが込められているのか?ともに営業係で入社2年目の吉田真美さん(23)と、1年目の大久保優香さん(23)に話を聞きました。


 ――2人で作ったそうですね

 吉田さん「私自身、受験でうまくいったことがないので、応援できればと思って書きました。朝9時までの仕事を終えた後、2人で文章やレイアウトを何度も練って、完成までに6時間かかりました」

 ――なぜ黒板だったのですか

 大久保さん「最初は列車の遅れなどを知らせるホワイトボードに書いていたのですが、受験生に向けたメッセージなんだから黒板にしようと、変更しました。普段使われていなかった黒板を探し出すのが大変でした」

 ――2人の「叶わなかった夢」とは

 吉田さん「学校の先生になることです」

 大久保さん「外国人に日本語を教える先生になることです」


 ――どんな思いを込めたんですか?

 吉田さん「私が込めたのは『今持っている夢は、今しか持てない』ということです。高校・大学と教師になるのが夢でしたが、今はこうして駅員として誇りを持って働いています。これから、いろんな世界に出て、いろんなものを見る機会があると思いますが、その時持っていた夢は決して無駄にはならない、ということが伝わればと思いました」

 大久保さん「『頑張って』って言葉は使いたくなかったんです。自分たちもそうだったように、受験生が頑張っているのはみんな知っていますから。これから何が起こるかわからないけど、目の前のチャンスをしっかりつかんでほしい、という思いを込めました」

 ――2人の今の夢は

 吉田さん「郡山駅から地域を盛り上げていくことです」

 大久保さん「これから車掌や運転士といった仕事を経験していくなかで、教わる立場から、きちんと『教えられる人』になることです」


 試験2日目の17日朝、2人は駅で受験生にカイロやポケットティッシュを配りました。「話題になっているメッセージはどこにあるんですか」と聞かれ、少しうれしくなりながらも、自分たちが書いたことは内緒にして場所を案内したそうです。

  1. 2016/01/31(日) 14:12:42|
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サッカー少年

一人の少年が進路希望欄に書いたのは、「ブラジル」だった。


ブラジルで、プロサッカー選手になることが、少年の夢だった…。


担任の先生は、激怒して職員室から追い出した。


サッカー部の先生には、「99%無理」と言われた。


少年は、「1%あるんですね?なら、僕はその1%にかけます。」と答えた。


少年は、15歳でブラジルに旅立った。


ブラジルのユースチームで、こんなことがあった。


少年がサッカーの格好をしているだけで、周りの人間は彼を笑った…。


サッカーが下手くそなのは、代名詞のように「日本人」だと言われた…。


だが、その少年は死に物狂いに練習を重ね、18歳でプロ契約を勝ち取った。


そして、ブラジルNo.1のサッカー雑誌の表示を飾った。


そして、青年は日本に帰国することを決意した。


次なる夢は、日本をワールドカップに連れて行くこと…。


93年に開幕したJリーグ。


青年は、時代の寵児となった。


Jリーグの初代MVPは、青年の名前が刻まれた。


彼は、こう思っていた。


思い切りサッカーをして、30歳過ぎたら頂点で引退しようと…。


94年のアメリカ・ワールドカップ予選、エースとして参加した青年だったが、ドーハの悲劇と呼ばれる、ロスタイムの失点で、日本の初出場を逃した…。


青年はその後、ワールドカップに行くための何かを掴むため、日本人で初めて、セリエAに移籍した。


そして、98年のフランス・ワールドカップ予選。


苦しみながら日本は、ワールドカップの出場を決めた…。


気がつくと、彼は31歳になっていた。


彼のワールドカップ予選の総得点は、27になった。


だが、ワールドカップ本選の代表に、彼の名前は記されていなかった…。


記者会見で、こう話した。


「日本代表としての誇りは、向こう(フランス)に置いてきた…。」


その年、チームから戦力外通告を受けた…。


彼は、一人考えた。


「誰も、自分の知らないところへ行きたい…。」


そして、彼はクロアチアに行くことを決めた。


練習初日、彼の眼に一人の選手が映った。


その動きを見て、「売り出し中の若手かな?」と思った。


しかし、その選手は大ベテランの選手だった。


彼の名は、ゴラン・ユーリッチ。


クロアチアを代表する、名DFだ。


自分より年上の選手が、誰よりも懸命に、誰よりも誇らしくプレーしていた…。
こんな質問をしてみた。


「どうして、そこまでやれるのか…?」


ゴランは言った。


「サッカー選手とは、年齢に関係なく、常に成長するものだ。低落など存在しない…。」


彼は思った…。


「どこまでも、走り続けよう…。」


2010年、彼はJリーグの最年長出場記録と最年長得点記録を更新した…。


ブラジル、日本、クロアチア、オーストラリア…。


様々な国でプレーし続け、夢を与え続ける彼に、日本人は尊敬を込めて、彼を「KING」と読んだ。


彼の名前は、三浦知良。


日本サッカーのパイオニアの名だ。


ある雑誌の企画で、ゴラン・ユーリッチから三浦知良に手紙が届けられた。


その中で、ゴランは、三浦知良に1番言いたかったことがあったという。


「日本のマスコミほどには、カズがフランスW杯に行かなかった理由を知らないけれど、その事実は聞いていた。カズは「監督に呼ばれなかっただけだ」と言っていたけど、その取り乱さない、事態を真摯に受け入れる姿勢に感動したよ…。


日本のW杯進出に大きく貢献したのはカズだっていうのに、それでもカズは、派手に抗議することもなかったんだよな…。


男だよ…。


それでこそ偉大なプレイヤーってもんだ…。
ところでカズと俺はその後再びノゴメット(サッカー)のおかげで再会することになる。


今度はJリーグ。


俺は横浜F・マリノス、カズは京都にいたんだよな。


アウェーの京都戦では3-1で勝ったけど、1点を決めたのはカズだった…。


カズ、これだけは言わせてくれ…。


俺は日本に行ってはじめて、カズという名前が何を意味するのか…、カズとはいったい何者なのかがわかったんだ…。」


  1. 2014/06/13(金) 23:21:15|
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いまが一番幸せ

検査で喉頭がんと診断された年配の男性がいました。


しかし、彼は医師からの手術の説明にはまったく耳を傾けないで

「最後まで手術をしないで戦う」

と言って、手術の治療を拒みました。


新聞記者だった彼にとって、声を失う手術を受けると取材ができなくなるからでした。


しばらく、入院した彼はその後、手術をしないで自宅で療養することになりました。


しばらくして、彼が再び、入院することになりました。

病状が悪化してしまったので、手術をする必要があったからです。


痩せて、水さえも飲むことができなくなって、苦しそうに呼吸をしていた彼の姿を見て、

看護師さんは

「こんな状態になるまで自宅で過ごしていたのか…」

と彼の意思の強さに驚きました。

気管切開の手術を受けることになった彼は、看護師さんに

「負けました。病に負けました」

と一言だけ話をしました。


気管切開の手術を受けると声をだせなくなるので、これが彼の最後の言葉でした。


彼は若い頃から熱血新聞記者としえ仕事一筋で生きてきました。

全てを仕事にかけるような人生でした。

そのために、息子さんや家のことは全て奥さんに任せっきりだったようです。


以前に入院した時に看護師さんに

「取材、取材でいつも飛んで歩いているから、女房には苦労をかけた。

定年になって仕事を退いたら、取材旅行ではなくて、夫婦水入らずで温泉旅行に行きたい。

女房に楽をさせることがこれからの私の生きがい。

これからは女房との時間を大切にしたい」

と話していたそうです。


やがて、彼はガンの進行のために首から下の神経麻痺が起こり、手足が動かなくなりました。


彼の奥さんが時間のある限り、彼に付き添っていましたが、彼の顔からは笑顔が無くなって、

無表情になり、一点をみつめたまま、誰の言葉にも反応しなくなりました。


奥さんに

「主人が最近、全然、話を聞かなくなり、笑わなくなりました。

何を話しても無反応で夫が何を考えているか分かりません。

どうかなってしまったんですか?」


と相談された看護師さんは


「これからは女房との時間を大切にしたい」


と彼が言っていたのを思い出して

彼のこの気持を声が出せない彼の代わりに

伝えてあげようと考えました。




そして、奥さんがお見舞いに来た時に、

彼が奥さんと一緒に温泉に行きたがっていたことや、

本当に奥さんに感謝しているという彼の想いを伝えてあげました。


ふと、黙って聞いていた奥さんが彼の方を見ると、


彼の口が歪んで鼻水と涙で

顔中がぐちゃぐちゃになっていました。




奥さんは泣いている彼の涙をゆっくりと拭いてあげると


「私は今が一番、幸せよ

1日中どこにも行かないあなたのそばに

ずっと一緒にいられることが今まであった?


こんなに一緒にいられる時間持てて、

私は今が一番、幸せ。


迷惑とも苦労しているとも、ちっとも思わない」


と泣きながら、震える声で彼に話しかけました。


その後の男性はこれまで見たこともないような穏やかで優しい顔つきになりました。




その1週間後、彼は奥さんに見守られながら静かに亡くなりました。


看護師さんは

「私もこの夫婦のようになりたいと思って、

この時に彼の奥さんが自宅の庭から摘んで来たバラをいただいて

私の家の庭に植えたんです。


毎年、咲いてくれる花を眺めながら、

伝えなければ伝わらない想いがあることを忘れないようにしています」

と話してくれました。
  1. 2014/05/11(日) 14:25:52|
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かわいそうな像



3/20は上野動物園の開園記念日

それにちなんで、上野動物園を舞台にしたみなさんも一度は読んだことがある有名な話を紹介します




上野の動物園は桜の花ざかりです
風に散る花.お日さまに輝いている花 
その下に、どっと人が押し寄せて動物園は込み合っています

さきほどから長い鼻でラッパを吹き鳴らし丸太渡りの芸当を続けている象の檻の前もうごけない程の人だかりです
 
その、賑やかな広場から少し離れた所に、一つの石のお墓があります

気の付く人は余りありませんが、動物園で死んだ動物達をお祭りしたお墓です

いつも暖かそうに、お日さまの光をあびています




ある日、動物園の人が、その石のお墓をしみじみと撫でながらわたくしに哀しい象のお話を聞かせてくれました


今,動物園には三頭の象がいます

ずっと前にもやはり三頭の象がいました名前を,ジョン,トンキー,ワンリーと言いました
 
その頃、日本はアメリカと戦争をしていました

戦争がだんだん激しくなって、東京の町には朝も晩も爆弾が雨のように落されました
 
その爆弾がもしも、動物園に落ちたらどうなる事でしょう

檻が壊されて恐ろしい動物たちが町へ暴れ出たら大変な事になります

それで軍隊の命令で、ライオンも虎も、豹も、熊も、大蛇も、毒薬を飲ませて殺したのです


いよいよ三頭の象も殺される事になりました

まずジョンから始める事になりました

ジョンはじゃがいもが大好きでした、ですから毒薬を入れた、じゃがいもを普通のじゃがいもに混ぜて食べさせました

けれども利口なジョンは、毒薬の入ったじゃがいもを長い鼻で口まで持って行くのですがすぐにポンポンと投げ返してしまうのです

しかたなく毒薬を注射する事になりました

馬に使う、とても大きな注射の道具が支度されました

ところが象の体は大変、皮が厚くて太い針はどれもポキポキと折れてしまうのです

しかたなく食べる物を一つもやらずにいますと可愛そうにジョンは、十七日目に死にました
 

続いて、トンキーとワンリーの番です

この二頭は何時も可愛い目を、じっとみはった心のやさしい象でした

わたしたちは、この二頭をなんとかして助けたいので遠い仙台の動物園へ送ろうと考えました

けれども仙台にも爆弾が落とされて、町に象が暴れ出たらどうなる事でしょう

そこでやはり上野の動物園で殺す事になりました

毎日、餌をやらない日が続きました

トンキーもワンリーもだんだん痩せ細って元気がなくなっていきました

その内にげっそりと痩せこけた顔に、あの小さな目がゴムまりのように、ぐっと飛び出してきました

耳ばかりが大きく見える、悲しい姿にかわりました

今まで、どの象も自分の子供のように可愛がって来た象係の人は「あぁ…可愛そうに可愛そうに…」と、檻の前を行ったり来たりして、うろうろするばかりでした
 

ある日、トンキーとワンリーがひょろひょろと体を起こしてて象係の前に進み出てきました

お互いにぐったりとした体を背中でもたれあって芸当を始めたのです

後ろ足で立ち上がりました
前足を上げて折り曲げました
鼻を高く高く上げて万歳をしました

萎びきった体中の力を振り絞ってよろけながら一生懸命です

芸当をすれば元の様に餌が貰えると思ったのでしょう

象係の人はもう我慢できません

「あぁ…ワンリーや!トンキーや!」と,泣き声を上げて餌のある小屋へ飛び込みました

走って水を運んで来ました、餌を抱えて来て象の足元へぶちまけました

「さぁ!食べろ!食べろ!飲んでくれ!飲んでおくれ!」と、象の足に 抱き縋りました


私達は、みんな黙って、見ない振りをしていました

園長さんも唇を噛締めて、じっと机の上ばかり見つめていました
 
象に餌をやっては行けないです、水を飲ませてはならないのです

けれども、こうして1日でも長く生かしておけば戦争も終って助かるのではないかと、どの人も心の中で神様に祈っていました


けれども、トンキーもワンリーも遂に動けなくなってしまいました

じっと体を横にしたまま、ますます美しく澄んでくる目で動物園の空に流れる 
雲を見つめているのがやっとでした

こうなると象係の人はもう胸が張り裂ける程、辛くなって象を見に行く元気がありません

他の人達も,苦しくなって、象の檻から遠く離れていました


遂に、ワンリーもトンキーも死にました

どちらも鉄の檻にもたれ鼻を長く伸ばして万歳の芸当をしたまま、死んでしまいました

「象が死んだあ!象が死んだあぁ!」

象係の人が叫びながら事務所に飛び込んで来ました

拳骨で机を叩いて泣き伏しました

私達は象の檻に駆け付けました

どっと檻の中へ転がり込んで痩せ象の体にすがりつきました

象の頭を揺す振りました足を鼻を撫で回しました

みんな、おいおいと声を上げて泣き出しました

その上をまたも爆弾を積んだ敵の飛
行機がごうごうと東京の空に攻め寄せて来ました

どの人も象にに抱き着いたまま「戦争をやめろ」、「戦争をやめてくれ…やめてくれえ…」と、心の中で叫びました

後で調べますと、タライ位もある大きな胃袋には一滴の水さえも入っていなかったのです




その三頭の象も今はこのお墓の下に静かに眠っているのです

動物園の人は、目を潤ませて話し終りました

そして、吹雪のように桜の花弁が散りかかってくる石のお墓をじっと見つめて撫でていました

  1. 2014/03/20(木) 18:28:02|
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「母からの手紙」

ソチオリンピックにて、見事個人で銀メダル、団体で銅メダルに輝いたスキージャンプの葛西選手


日本選手団の主将を務め、さまざまなプレッシャーの中での活躍に感動しました


そんな葛西選手を支えた話しを紹介します




母からの手紙
「絶対におまえは世界一になれる」


葛西選手は94年のリレハンメル五輪の前年に妹さんが再生不良性貧血という重病にかかりました


辛い治療を何度も受けたりドナー探しで大変だったと思います


妹のためにもぜひ金を取りたいと思っていたんですが残念ながら銀メダルでした


でも、妹さんは病気をおして千歳まで迎えに来てくれたそうです


葛西選手は、それまで誰にも触らせずにおいたメダルを、1番に触らせてあげたそうです


元気になってくれ、という願いを込めていたそうです


その時「ありがとう。次は金だよ」って
逆に励まされましたそうです


病気の妹に比べれば、自分は何も辛いことはない


そんな妹を支えに、98年の長野五輪へ
向けて気持ちを奮い立たせました


ところが94年の11月、大会で転倒して鎖骨を折り、しばらく跳べない状態が続きました


翌年の5月頃、ようやく完治して、ブランクを埋めるためにそれまで以上に猛練習に励み、通常なら300本跳べば十分といわれる夏に、900本跳んで再起を賭けたそうです



しかし、それが逆に災いして、その冬のシーズンで今度は着地の時に足を骨折してしまいました


練習のし過ぎで、腰や股関節に負担をかけ過ぎたのが原因でした


それから1年半くらい記録と遠ざかっていたんですが、そんな折に実家が放火に遭いお母さんが全身火傷で病院に担ぎ込まれた


なんとか一命は取り留めたんですが、火傷は全身の70%にも及んでいて、炎の熱で肺も気管も焼けていました


何度も皮膚移植を繰り返したんですが、97年の5月に亡くなってしまいました


後から入院中にお母さんの書いた日記が出てきたそうです



葛西選手はそれを開くと今でもポロポロと涙が出てくるそうです


ああ、辛かったんだろうなあって 


貧乏と闘いながら必死で働いて僕たちを育て、ジャンプまでやらせてくれた母には、いくら感謝をしてもし足りません



金メダルを取って家を建ててあげる
約束を果たせなかったのが、
本当に残念でしょうがなかったそうです


入院中の母は、もう手も握れないくらい
ひどい状態でした


痛みは絶えず襲ってくるし、死の恐怖と必死に闘っていた


そんな中で、不調な僕を気に掛けて、励ましの手紙を送ってくれたんです


そこに書かれていたことは




「いまこの時を頑張れ。絶対におまえは世界一になれる。お前がどん底から這い上がってくるのを楽しみに待っているよ。」と


いまでも大事な大会の前にはこの手紙を読み返しているそうです


見るたびにものすごく
大きな力をもらえるそうです
  1. 2014/02/18(火) 13:34:17|
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クロスカントリー

先日行われたソチオリンピック

いろいろ話題になった中で素敵な話しを紹介します




2014年02月11日に行われたクロスカントリー男子スプリント競技

ロシア代表のアントン・ガファロフ選手がレース中に転倒し、スキー板が折れてしまうハプニングが起こった

ガファロフ選手はそれでも立ち上がり 、何度も何度も前に進もうとするが、その度にスキー板の破損を悪化させ、終いには木っ端微塵となった・・・

もはやどうすることも出来ない状況の中、突如コース内に誰かが突然侵入してきました

その人は、実はカナダコーチであり、1本のスキー板を持ってコース内に飛び出し、ロシア選手にスキー板を手渡し交換したのである

ファロフ選手は競技を再開し、みんなとは大きく遅れたものの、無事にゴールすることができた

同じチームの選手ではなく、競技では敵チームとなるはずなのに、そのカナダコーチは迷わずスキー板を差し出したのだという

ちなみに、他の選手に道具を貸し与えるのはルール違反ではないので、失格にはならないそうです




カナダコーチへのインタビューで「見ていることができなかった。ロシア代表のガファロフ選手に母国で恥をかかせたくない一心だった」と思いを語ったのだという

素敵な話しですよね、さすがオリンピックですよね

しかし、この話しには続きがあります




実はこのカナダコーチの妻は元アスリートでトリノ五輪のスキー距離女子団体スプリントのチーム員だったそうです

その妻のチームメイトがトリノ五輪スキー距離女子団体スプリントの決勝戦でストックが折れてしまうというハプニングが起こったのだそうです

メダルのかかっている決勝戦

そんな中起こったハプニングによってメダルは絶望的と思われたが、その中でまさかの事態が!なんと決勝戦に出ているノルウェーのコーチがコースに飛び出て、カナダチームに新しいストックを渡したそうです


これだけではありません・・・実はストックが折れていた時にカナダは4位まで後退し、メダルの届かない順位にいました

そして、ノルウェーはカナダよりも前におりメダル圏内でした

このまま放っておけば強いカナダはそのまま脱落して順位を落とし、自国のチームがメダルを獲得するという状況下でストックを手渡したのです

その結果、カナダチームは順位を上げ、銀メダルを獲得

反面、自国のノルウェーチームは4位となりメダルを逃すこととなってしまいました




普通に考えたらオリンピックという大舞台で、メダルにこだわる人間ならば有り得ない行動です

そんな中行動は、まわりから誹謗中傷されることは間違いありません

が、しかしカナダ・ノルウェー両国で話題騒然となり、批判等をするのではなく、このコーチを讃えたそうです

カナダからはこのコーチに7400個ものメープルシロップが送られ、ノルウェー国内でもコーチが支援するガン撲滅慈善団体に270万円もの寄付が行われたそうです




この時のトリノ五輪の恩があったので、ソチ五輪でカナダコーチは飛び込んだのだと思います

さすがオリンピック
スポーツには国境はないですね
  1. 2014/02/14(金) 01:44:03|
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だからいつも笑顔で

今日から、ソチオリンピックが始まりますよね

楽しみです

オリンピック代表の上村愛子選手の話を前回に引き続き紹介したいと思います




ザー ザー ザー ザー


どうしてこんな音がしているのだろう
初めて聞くその変な音は、ちょっぴり恐怖だった。


「愛子、死んじゃうの?」
これは5歳の時に精密検査を受けたときのこと。


~生まれたときからわたしの心臓には穴があいている。
先天性心室中隔欠損症と診断され定期検診を行っていた。
1979年兵庫県伊丹市に生まれたわたし、人から愛される子になって欲しいとつけられた「愛子」
両親は愛子の身体に少しでもいいようにと兄とわたしを連れ空気のいい長野県に移り住む~


「愛ちゃん、スキーしんどい?運動しんどい?」

「全然しんどくない。楽しいよ!」

「だったら大丈夫、人それぞれ顔が違うように身体も違うんだと思えばいいよ。」


~もし、わたしの心臓に穴があいてなかったら、わたしは今頃まだ伊丹市にいたのだろうか?
最初から愛子の運命は決まっていたのかもしれないね。


初めてスキーを履いたのは3歳の時
プラスチックの板だった。
お母さんがいつも雪遊びにつきあってくれた。
それから兄と家で働いていた居候さんと毎日のように滑った。
いつも滑る前に「絶対国体選手になってやる!」と叫んでから滑った。
今思えばこれが呪文のような役目を果たしていたのかな


そして2001年国体に出場。
サブリミナル効果だっけ?違うかな。
小1で白馬へ。
そこではすぐにジュニアのアルペンチームに所属した。




実は転校してから中学生の初めぐらいまで、ずっといじめにあっていた。
練習に行くとわたしのグローブがなくなっていた。
必死で探したら雪がいっぱい中に詰められていて洗濯機の中でぐるぐる回っていたこともあった。
またある日はスキーがなくなっていた 。

やっとのことで探し出すと、ソールが石で削られてボロボロになってゴミのように捨ててあった。
目を疑ったけど正真正銘、わたしのスキーだった。

続けていたのは、やっぱりスキーが楽しかったからなんだと思う。
このことはずっと自分の中で処理するようにしていたんだけどスキー部をシーズン前にやめてしまったことからいじめの存在がわかる。

「愛ちゃんが、人に嫌がらせをされるようなことをしてないという自信があるのなら、そんなことに負けずに、もっと強くなりなさい。」

「用具だけでなく、愛ちゃん自身に危害を加えられるようなことがあれば、お母さんに絶対に言いなさいよ。そしたらお母さんが愛ちゃんを守ってあげる。」




わたしはいじめにあっている子どもたちの気持ちがよくわかる。
彼らが考えていることがわたしにはよく理解できるのだ。
いじめにあっているときの気持ちは、経験してみないと理解できないと思う。
助けを求めて解決できる問題ではない。
そして自分が悪くなくてもどうしようもないときだってあるのも事実だ。
「正義が勝つなんてウソだ。」と思ってたことだってある。
逃げたいばかりに死にたいと思ったこともあった。
死を選ぶことで、この苦しさから逃れられるんじゃないか、楽になれるんじゃないか、そう思ったのだ。
でも、死を選んでもなんの解決にもならないのはわかっていた。
その時は楽になりたくて逃げ出したい一心なのだけれど、その先にあるはずの幸せも、周りの人の幸せも、全て消してしまう。


あのころを思えばわたしはすごく変な性格だった。
あまり笑う子でもなかったし、考え方もかなり危なかった。
でもね、悪いことをしていない自信があったからがんばれたのだと思う。
悲しくて、つらくて仕方ないことだらけでも、強くなってがんばっていれば絶対に誰かが見守ってくれているはず。
もし、今いじめられている子がいたら…
つらい「現在」があっても誰にも平等に笑顔の「未来」があるはずだから。
  1. 2014/02/07(金) 13:31:10|
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なんでこんな一段一段なんだろう

5回目のオリンピック代表に決まった上村愛子選手

涙とともに「なんで、こんな一段一段なんだろう」という言葉を残したのは、2010年2月

4回目の五輪となったバンクーバーで4位になった時だった。

高校3年生でだった1998年長野五輪で7位となり、その後6、5位。

今度こそ、と期待されてシーズンの成績からいってほぼ間違いなしと思われて迎えたオリンピック。

後日、発表されたコメントを見てまた泣けました。

ソチオリンピック前に改めて読み直しました。







皆様へ

どうして、こんなにも沢山の人が
私を支えてくれるのに

なんで、結果は
残せないんだろう。

メダルはいつも
ちょっとのところで
届かない。


答えのない答えは
考えないほうがいいのか。
もしくは、開き直ったら楽になれるのか。

昨日の夜は
いろんな事を考え、眠れませんでした。


でも、考えたあげくに
自分の為だけに出した答えは
『私の人生の沢山あるストーリーの中で、それはメダルという観点での一つのお話』だという事。
だから、これはこれで、しっかり受けとめてまた、歩いて行けばいい。そう思いました。


私の友人が言ってくれました

難題のない人生は『無難な人生』
難題のある人生は『有り難い人生』

私はその後者を歩いてると。


オリンピックを夢見て
オリンピックでのメダルを夢見て
ずっと戦い続けてきました。

毎年、毎日、新しい考え方や新しい行動
いろんな自分を発見してきました。

自分のこうありたいと思うとおりの自分
自分の嫌いな自分

成功したときの喜び
失敗したときの悔しさ悲しさ
心が折れるとき
また立ち向かうとき


いろんな自分自身と向き合い
スキーの技術の成長と同じように
自分自身を成長させることができました。

ありがたい事だなぁと思います。



私にとって、オリンピックのメダルをとることは
この数年、自分自身に課せていた責任だったかもしれません。


周りの方からの大きなご支援とご協力。
それにお返しが出来るのは、やはり
結果を残す事がものすごく大切だと
思ってやってきました。


けれど、
それだけじゃないのかもと
少しは柔らかく考えられるようにも
なっています。

実際、
メダルを取れなかった事は残念でしたが
今、とても清々しい気持ちなんです。

私を支えてくださったみなさんは
最高にプロフェッショナルな人たち。

最高の環境で、最高の人、最高の道具に
支えられ、スタートからゴールまで
悔やまれる失敗をせずに滑り切れたことは
本当に幸せだったから。


私には、おおきな金メダルプロジェクトを
大成功に収める力は少し足りなかったけれど
その為の準備は万全だったし
「私たちの技術が世界一!」
と胸を張って滑ったことはたしかです。


皆で力を合わせて、皆でおんなじ目線で
一つのゴールに向かって頑張る過程、
自信を持って全力で戦えることが
なんて素晴らしい事なんだろうと思いました。

だからきっと、こんなに
清々しいんでしょうね。



あのターンを日本に教えてくれた
ヤンネさんに心から感謝します。

私を信じて、ときには周りと戦ってくれた
高野ヘッドコーチに心から感謝します。

まゆみちゃん、寒川さん、吉田さん、岳さん、飯田さん
チームのみんなに心から感謝します。

私が信頼をおいている、用具全ての
関係者の皆様に心から感謝します。

自分を支えてくださった、全ての皆様に心から感謝します。
日本チームを支えてくださった全ての皆様に心から感謝します。

18歳からずっと変わらずに私を応援し続けてくださった
北野建設の皆様に心から感謝します。

昨日は、最高に楽しかったです!
最高の舞台で、自分の技術に自信を持って
いいスタートをきり、私らしく滑り切って
ゴールができて、本当に幸せでした!

皆様、本当にありがとうございました。


皆様のご理解とご協力とご支援に
心から感謝します。


愛子


最後に。。

私と、私の家族をいつも助けてくださった
スポーツビズの皆様に心から感謝します。



http://www.youtube.com/watch?v=YpwqTa2H-v8&sns=em
  1. 2014/01/23(木) 03:15:25|
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