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佐賀北の夏

きみは怪物を見たか」(講談社)著者:中村計という本があります。
 
この本は、甲子園のヒーロー達の感動物語を小中学生向けに書いたものです。
 
松井秀喜選手
松坂大輔選手
斉藤佑樹選手
菊池雄星選手
 
が登場します。そうそうたるメンバーです。
 
その中にひとつだけ、ちょっと異質なエピソードがあるのです。
 
第4章「もう一つの甲子園」というエピソードです。
 
 
 
 
 
佐賀北が日本一になる13年前のことです。
 
 
 
 
百崎監督は佐賀県立神崎高校という高校で野球部の監督をしていました。
 
当時は部員が13人しかいないような、弱小チームだったそうです。
 
そんな中でも百崎監督は、「目標は甲子園だ!」と言っていたそうです。選手たちは、「は?」という感じです。
 
「そんなの無理でしょ!」という雰囲気だったそうです。
 
そんな中で一人だけ、「僕は絶対に甲子園に行く!」と言っていた選手がいたそうです。
 
でも、そんなに野球がうまくないんです。控えの選手なんです。
 
でも、一生懸命なんですって。
 
こんなことがあったそうです。
 
ある試合で7点差で負けていました。
このままだと、7回コールドで負けてしまう、という場面です。
百崎監督はその彼を代打で出しました。
 
ボテボテのショートゴロだったのですが、ファーストにすさまじいヘッドスライディングをしたんです。
その迫力に押されて、相手がエラーをしたそうなんです。
 
そこから勢いがついて、7点差で負けていたものをなんと1点差まで追いついたそうです。
 
結局、その試合は負けてしまったそうですが、そんな選手だったそうです。
 
しかも、彼の「物事に一生懸命に取り組む姿勢」はグランドの外でも変わらなかったそうです。
 
家では歳の離れた弟の面倒を良く見て、家の手伝いも一生懸命にやり、勉強も夜遅くまでやって、成績は1番か2番だったそうです。
 
いつも笑顔で正義感も強く、みんなから好かれていたそうです。
 
百崎監督は密かに、彼のことをキャプテンにしたいと思っていたそうです。
 
 
…そんな彼が2年生の夏… 
 
 
…自らの手で
 
 
 
…命を絶ちました。
 
 
 
…百崎監督は本当にショックだったそうです。
 
 
「もう、なにをどう考えればいいのか…。
 
自分の子も彼のようになってくれたらいいなって思っていたくらいだからね。
理想の子だった。
 
…その子が自分の手で命を落としちゃったんだよ。
 
子どもたちをどう育てればいいのか、わからなくなってしまった…」
 
 
 
あとでいろんな人から話を聞いてわかったことなのですが、彼は本当は野球をもっと頑張りたかったそうなんです。
 
でも、勉強ができたために、親戚や家族の期待も大きく、これ以上、野球を頑張ることができなかったそうなんです。
 
百崎監督は「『いい子だね』と言われると、真面目な子ほど、期待にこたえなきゃいけないって思うもんね。…俺も余計なプレッシャーを与えてしまったのかもしれない。本当は彼も、もっと甘えたり、ワガママを言いたかったしたんだろうな」と言っています。
 
さらに、「あのときほど、監督を変わってほしいと思ったことはなかった」とも言っています。
 
…辛かったでしょうね。
 
でも、百崎監督は逃げませんでした。
 
なんと、百崎監督が神崎高校に着てから、8年目に甲子園への切符を手にしました。
 
百崎監督「あの、自殺をした子のおかげで、選手に対する見方がまったく変わった」と言っていました。
 
「それまでは、なんでも言うことをきく、お利口さんに育てよう…と思っていました。
 
でも今は、『短所』があって当然。それが本当の子供の姿。逆に、なにも『短所』がない子の方が心配。
 
人って、いろんな人に迷惑をかけながら成長していくものでしょう。
だって、完璧だと思っていた子が死んでしまったんですから…」と言っていました。
 
ですから、日誌を出さない選手、監督のサインを無視する選手、試合中に興奮して相手チームの選手を突き飛ばしてしまった選手がいても今は、「なんだ、こいつは!」とは思わないそうです。
 
もちろん、こっぴどく叱りますよ。でも、「そういう部分があってもいいんだ」って思えるようになったそうです。
 
佐賀北が甲子園で優勝した時、センターを守っていた馬場崎選手なんかは、その筆頭だったそうです。
 
何度も、百崎監督とぶつかったそうです。
 
でも、その選手が、数々のファインプレーをして、チームの窮地を救いました。
 
卒業式の時に、馬場崎選手は職員室に来て百崎監督に、「素直になれなくてすみませんでした・・・」ってボロボロ泣いたそうです。
 
百崎監督の「見放さない心」が彼をそうさせたような気がします。
 
 
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  1. 2011/10/29(土) 23:13:43|
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甲子園

先日、プロ野球のドラフト会議がありましたよね

野球にまつわる素敵な話しを聞いたので紹介します




私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小さい頃良く聞かされていました。

そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。

父も良くキャッチボールをしてくれました。

そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。

ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。

その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。

父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。

父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。

そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。

それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。

翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。

公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。

父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。

病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。

すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。

「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。

私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。

父は、細い腕でボールを受けてくれました。

ミットは、すごい音がしました。

父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。

ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。

30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。

「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。

その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。

さらに数週間後、父の意識は無くなりました。

そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。

ガンでした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。

父の日記でした。

あるページには、こう書かれていました。




「○月○日 今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」

私はこれを見て、父の想いを知りました。

それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。

翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。

決勝の相手は、甲子園の常連校でした。

見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。

ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。

10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。

そのとき打順は、9番バッターの私でした。

相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。

打てるはずもありませんでした。

あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。

気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。

私は夢中で走りました。

相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。

サヨナラ勝ちでした。

チームメイトは、感動で皆泣いていました。

応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。

スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。

甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることができて、とても楽しく野球が出来ました。

そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。

甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。

これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。

ありがとう、お父さん!!
  1. 2011/10/29(土) 14:48:09|
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麦とたんぽぽ

皆さんは、ご存じでしたか?

世界の最貧国のひとつに数えられているシエラレオネの方々が日本を応援してくださっていることを。

ダイヤモンドの利権を巡る10年にわたる内戦の結果、国は荒れ果て、シスター根岸が校長先生をされる女子校グアダルペの聖母学園でも、戦争中、半数の皆さんが反乱軍に連れ去られたり、ひどい暴力を受けたり、家族も含め、みせしめのために両腕を切られたり。

今でも一日に一食しか食べられない貧しさにあるそうです。

数年前、この国に行かれた方が、子ども達がお昼休みにみんな学校の窓際に座っているので、「外で遊ばないの?」と聞くと、「外で遊ぶとお腹が空いてしまう。だから、こうして午後の授業を待つの」と答えがあったそうです。

電気もテレビもないこの国の方々が、日本の大震災の被害をラジオで知り、「シスター根岸の国のため」と集めたお金をお届けくださっていることに、ありがたいやら申し訳ないやらとても複雑な気持ちになりました。

講演会後、お茶を差し上げたとき、シスター根岸はお話し下さいました。

シエラレオネの子ども達は、最も貧しい方を除いて一日に一食の給食を我慢し、そのお金を日本の支援に当ててくださっていること。

お米だった給食を安いお芋に変え、校舎の改築費用2年分を抑えて、日本のために分かち合おうとされていること。

四旬節に子ども達はいつもより早く学校に来て、日本の皆さまのためにと土の上にひざまずきながら、1時間にわたって祈ってくださったこと。




アフリカでは、一日一日の生活が楽ではありません。

明日食べるものがあるかどうかもわかりません。

そんな中で子どたちは、きょう生きていられた、そのことに感謝して「神様ありがとう」と大声で叫びます。

もしアフリカに五つ良いところがあるとすれば、日本人は十個良いところを持っていると思います。

ところが、日本人は昨今、精神的白内障に陥ったように、便利主義、物質主義、個人主義、そして名誉主義といったカーテンを引いてしまっていたように思います。今回の災害でそのカーテンが取り払われたのです。


ボランティアの方が泥の中で一生懸命働く、その喜びはどこから来るのでしょうか。与える喜び、その人は疲れていても喜びがあると思います。


与える愛を喜びと知った時に本当の幸せがやって来るし、本当の友だちができてくる。本当に尊いのは愛を与えることではないでしょうか。

愛は自分がいただくものではなく与えていくもの。その時、家庭が、学校が、町が、そして日本中が天国になる、愛の世界になると思います。

大震災は悲しいことでしたが、心のカーテンを取り払って、きょう生きていられることに感謝して、その感謝を生活の中で実行していただけたら本当に嬉しく思います。




という話しが、田園調布雙葉学園の校長通信「麦とたんぽぽ」に掲載されているそうです。




子供達は、シスターたちを通して日本を知った事でしょう。

そのシスターの国が困っているのを知って、自分ができる愛を与えてくれているのです。

子供達が与えてくれるものは、日本からすれば、僅かなものかもしれません。でもあの状況下の子供達が、日本のために、食事を抜いて送ってくれたお金も含まれていると思うと感謝しきれません。
  1. 2011/10/25(火) 21:32:38|
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雪絵ちゃんとの最後の約束

雪絵ちゃんは十二月二十八日、雪のきれいな日に生まれた女の子で、多発性硬化症(MS)といって、頭の中のいろいろな部分が硬くなっていって、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり、手足が動かなくなったりする病気でした。

だけど雪絵ちゃんはいつも「雪絵はMSでよかったよ」と言うんです。「MSだから気づけた素敵なことがあるし、車椅子だからこそ知っている素敵なことがいっぱいあるよ。だからMSの私を丸ごと愛するの」って。

私はそんな雪絵ちゃんが大好きで、学校を離れてからもずっとお友達で、「きょうはこんなことがあったよ」と話しては「かっこちゃん、よかったね」と言ってくれていました。

でも、病気はどんどん進行して、ほとんど手足が動かせなくなってしまいました。

雪絵ちゃんは十月に大きな再発があり、意識不明になりました。そして十二月二十三日にはまた再発するのですが、翌日私は出版の件で一年前から韓国に行くことが決まっていたので、小松空港へ向かったのです。ところが、とってもいいお天気なのに飛行機が飛ばないのです。韓国の出版社の方にお電話したら「おかしいですね、羽田便も福岡便も出ていますよ。こっちもとても天気がいいのに」と。仕方がないので、次の二十六日の便で行くことになりました。そして二十六日の九時、出発の準備をしていたら、電話のベルがなりました。

雪絵ちゃんが亡くなった報せでした。お家へ駆けつけると、雪絵ちゃんは眠るような優しい顔で横になっていました。お母さんは「雪絵はきょう亡くなろうと決めていたんだと思います」とおっしゃいました。

お正月になったら遠くの病院に転院することが決まっていて、お家が大好きな雪絵ちゃんはかつてその病院には行きたくないと言っていたそうで、「きっと二十八日の誕生日もお正月も家で過ごそうと思ったんだと思います」と。

私は韓国に行かなければいけない事情をお話ししたら、「雪絵は先生と行った温泉旅行がすごく嬉しかったみたいですから、形見のものを持って、雪絵を連れて行ってください」といくつか雪絵ちゃんのものをくださって、それを手に私はお通夜もお葬式にも出ないで旅立ったんです。

韓国に着いてからも私は短かった雪絵ちゃんの人生を思っていました。「MSでよかった」と言っていたけれど、本当は強がって言っていただけなんじゃない?本当はつらい人生だったんじゃない?そんなふうに思っていたのですが、偶然持っていた荷物の中に、雪絵ちゃんがつくった詩がありました。


誕生日
私、今日うまれたの。
一分一秒の狂いもなく、今日誕生しました。
少しでもずれていたら、今頃健康だったかもしれない。
今の人生を送るには、一分一秒のくるいもなく生まれてこなければいけなかったの。
結構これって難しいんだよ。
一二月二八日、私の大好きで、大切で、しあわせな日。
今日生まれてきて大成功!
「すのう」に生まれてきて、これもまた大成功!

※すのう=雪絵ちゃんのペンネーム


私は悲しくて悲しくて、日本に帰ってきてからもご飯も食べられなかったし、夜も眠れませんでした。

「これからは一体誰が私の話を聞いて“よかったね”って言ってくれるの」みたいな自分勝手な思いになっていたんです。このままじゃ自分自身がダメになってしまうなと感じた時、最後に雪絵ちゃんと話した日のことを思い出しました。

「かっこちゃん、きょうはどうしても聞いてほしいことがあるの。いまから言うことは、絶対にダメとか嫌とか言わないで」と何度も念押しするんですね。

「いいよ、何でも聞くよ」と言うと、雪絵ちゃんは私にこう言ったんです。「前にかっこちゃんは病気や障がいは大事だって言ったよね。人間はみんな違ってみんなが大事だということも科学的に証明されているとも言ったよね。それを世界中の人が当たり前に知っている世の中に、かっこちゃんがして」

“世界中なんて、そんなこと私には無理”と言いかけた時、雪絵ちゃんに「何にも言わないで。何でも聞いてくれるって言ったよね」と言われて、私は「分かったよ」と約束したんです。

そうだ、雪絵ちゃんとの約束を果たさなきゃ。この思いが私に再び立ち上がる力を与えてくれました。そして本や講演を通じて、多くの人にそのことを伝えたいと思うようになったのです。




「雪絵ちゃんとの最後の約束」という話しは、山元加津子さん(特別支援学級教諭)の書かれた話しです

誰もが、なりうる可能性のある話し

読んでくださった方のココロに残れば嬉しいです
  1. 2011/10/24(月) 12:23:08|
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生まれ変わってもお母さんの子供がいい?

「生まれ変わってもお母さんの子どもがいい?」


この話はある和尚さんがPTAの会合等で若いお母さんによくお話するそうです。


自分のお子様を前に立たせて、こう聞いてみてください。


「あなたもう一度生まれてくるとしたら、もう一度お母さんの子どもに生まれてきたいかい?」と、その時たいていの子どもは、「冗談じゃないよ」って言うかもしれません。でも、冗談じゃないよって言っても良い。その時こう言って欲しいのです。

「私はお前のお母さんとして生まれて来て良かった」と…。そう言うお母さんが、今は求められているのです。



お父さんであれば、自分の息子を前にして、「お前は俺の息子に生まれて良かったか?」と聞き息子がどんなへらず口を答えたとしても、

「俺はお前の親父として生まれてきて、これほど良かったことはないよ」と言ってあげることが出来る、お父さんが必要なのです。

そして役割が違えば、例えばご主人であれば、奥さんを前にして、「俺はお前の夫になったことを、とてもうれしく思う」と一言言えるか、思えるかが非常に大事なことだと思います。

そのことが言えるような豊かな気持ちが必要だと思います。

この話を聞いた、あるお母さんがこのような手紙を書いて来たそうです。


和尚さんの話を聞き、私の家でも小学校3年生と1年生の娘2人との関係について、いろいろと反省させられました。

先日ふと娘たちに「生まれ変わってもママの子どもがいいかな?」と尋ねました。

上の娘は目にいっぱい涙をためて「ママとパパの子どもが一番に決まってるよ」と、「でも死んだら何もかも忘れるから、死んだらだめだよ。ママ死んだらだめだよ」と言いました。

下の娘はニコニコしながら、「ママが一番好きだから、また子どもになりたい」と言いました。

私は急に胸がジーンとし、二人を抱き締めました。子どもをありがたいとつくづくそう思いました。

他人さまからみると、出来の悪い子どもかもしれませんけど、私と主人からみると宝物です。
これからの長い人生ともに頑張って行こう、そう思いました。


という、微笑ましい話しです





しかし、このような家族だけではありませんので、もう一つご紹介します。



32歳のお母さんで、5歳と3歳になる二人のお子様がいます。

38歳の会社員のご主人が酔っ払い運転で、無理に追い越しをしたが為に対向車と正面衝突し双方ともお亡くなりになりました。

ご主人の過失の為に、相手の死んだ青年の両親から奥さん宛てに慰謝料の請求が来たそうです。

保険金もあまり出なかったので、奥さんは、将来家を建てる為に貯金し始めていたお金97万円、テレビ・冷蔵庫・洗濯機・洋服ダンス・時計・指輪・夫の洋服すべて売りました。

その代金23万円と合わせて120万円をお見舞い金としました。

また、夫の退職金全額を差し上げる条件で、ご遺族に持って行きました。

ところが、こんな少額では納得がいかないと、投げつけられたそうです。
家に戻っても、お子様2人は、お父さんが死んだことを理解出来ないので、「お父さんどうしたの?」、「なぜテレビが無くなったの?テレビが見たい」とせがみ泣き出したそうです。


子どもたちは今、すやすやと眠っています。これからお父さんの元へ行けるのもしらずに…

私と子どもとの命と引き換えに、夫の罪をお許し下さい。

そのむね、ご遺族のご両親にお取り払い下さいますようお願い申し上げます。




これは遺書の写しです。

この手紙のあと、2人のお子さんに薬を飲ませ、別府湾に入水自殺されたのです。

この話は大分の交通安全大会で朗読され、その奥さんの遺族の方が、酔っ払い運転はこう言う悲劇を生むのです。

と言う意味で、この和尚さんに下さったそうです。





先ほどとは逆に、子どもは親を選べません。

だからこそ親の生き方、生き様について行くしかないのです。
もっと生きたかったこの子どもたちは、自分たちで人生を歩んで行くことが出来なくなったのです。

自分は子を持つ親ではないので、子を持つ親の方ほど理解できてないかもしれません。

でも、この気持ちを忘れないようにしたいと思います



  
  1. 2011/10/23(日) 18:31:30|
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感謝に勝る良薬なし

昔、仲の悪い嫁と姑がいました。

姑は、病気がちでいつも機嫌が悪く、事あるごとに嫁をいびります。

「うちの嫁は、要領が悪くて、怠け者で……」と本人に聞こえるように言うだけでなく、近所や親戚にも言いふらします。

夫は、嫁の前では、「お母さんは言い過ぎじゃないか」とは言うものの、病気の母親の前に出ると口答えのできない人です。

嫁は姑にいびられるたびに、いい嫁になろうと努力します。

しかし、いくら努力しても、陰湿ないじめをやめない姑に次第に憎しみを募らせていきます。遂には、いっそ姑が消えていなくなればよいと思うほどになりました。そんな暗い思いをもつ自分に、嫁はまた苦しみました。

そこで、あるとき、信頼できる僧に自分の悩みを打ち明けます。

するとその僧は、こう言いました。

「そうか、ではお前の望みをかなえてやろう。簡単なことだ。この薬を姑の食事に少しずつ混ぜるのだ。すると、姑の体はだんだん弱まっていき、一月もすると消えてなくなるじゃろう」

嫁は驚きました。

「……つまり、一月で死ぬということですか?」

僧は平然としていました。

「人は皆、死に向かっておる。誰でも老衰する。ただそれを早めるだけのことじゃ」

「でも……」

「ただし、この薬を使うにあたって一つ条件がある。この薬を入れた食事は多少味が悪くなる。姑に気持ちよく食べてもらうためには、食事を出すごとに、何でもいいから感謝の言葉を述べるのだ」

「感謝の言葉、でございますか?」 

嫁は食事に薬を混ぜるよりも、姑に感謝の言葉を口にする方がずっと難しいような気がしました。

家に帰ると、姑のいつもの突き刺すような目が待っていました。

「どこで油を売っておったのか、お前はいつも帰りが遅い、グズで要領が悪い」などと姑から罵詈雑言を浴びせられました。

「申し訳ありません」

嫁は頭を畳につけて謝ると、台所に駆け込み、涙ながらに、食事の支度にとりかかりました。

そして、良心の呵責を覚えながらも、僧からもらった薬を少しだけ混ぜて姑の前に出しました。

僧から言われたとおり、何か感謝の言葉を口にしなければなりません。

「お母さん……」

「ふん、なんだい、また同じようなおかずか。お前は料理が一向に上達せんの」

「はい、ありがとうございます」

「何?なんだって……」

「ありがとうございます」

「どういうことだ」

「私は、本当に料理が下手です。ですから、お母さんが私の下手な料理でも食べてくださるだけで、ありがたく思うんです」
 
姑はちょっと不思議そうな顔をしましたが、黙って料理に箸をつけました。そして、黙々と食べると箸を置く前に一言つぶやきました。

「今日の料理、ちっとはうまかったぞ」

嫁は驚きました。

なぜなら、初めて姑に誉められたからです。

そんなことがあっても、これまで積もりに積もった姑に対する憎しみが消えるはずはありません。

嫁は僧が言ったとおり、料理に少しずつ薬を混ぜ、姑に毎回必ず感謝の言葉を言うようにしました。

お母さんに、味噌汁の作り方を教えてもらったこと。

お母さんに、掃除の仕方を教えてもらったこと。

お母さんに、裁縫のコツを教えてもらったこと。

自分はまだ十分にできないが感謝していると繰り返し伝えました。

お母さんから言われてきた数々の叱責の言葉も、自分の励ましにしていきたいと感謝しました。

嫁は、始めは心にもない言葉を並べているように思えました。

しかし、毎日感謝の言葉を口にするたびに、自分の心が次第にほぐれていくのが不思議でした。

そうしているうちに、姑の嫁に対する態度が明らかに変わっていきました。

嫁を見るときの顔が柔和になってきました。

それどころか、陰で、嫁のことを誉めることもありました。

夫には「お前はいい嫁をもらった」と言い、近所や親戚には「うちの嫁は息子が選んだだけあって、できた女だ」と自慢するようにもなったのです。

それに応じて、嫁は姑に対する憎しみが薄らいでいきます。

それどころか、病気がちで立つことも歩くこともできない姑の身になってみると、これまでの自分に細やかな愛情が足りなかったのだと気づかされました。

嫁の心に次第に激しい後悔の念が湧き上がります。

私は、あの姑を体よく老衰したように見せかけ、毒殺しようとしている。

なんという恐ろしいことだ。なんという罪なことだ。

いたたまれなくなった嫁は、僧のところへ駆け込みます。

そして、泣きながらに訴えます。

「お坊さま、私の間違いでした。私は、なんと罪深い女でしょう。どうかどうかお許しください。お坊さま、ともかくお母さんを死なせたくありません。どうかあの毒を消す薬をください。お願いいたします。お願いいたします」

泣いて頼む嫁に、僧は言いました。

「案じるな。あれはただ海草を粉にしたものだ。毒ではない。毒を消す薬、と申したな。覚えておきなさい。心の毒は、感謝することで消えるものじゃ。どうやらお前の心にあった毒は、もうすっかり消えてしまったようだな」




という話しです

相手を変えるには、まず自分が変わらないといけない。

相手の嫌な面は、実は気がつかない自分の嫌な面を見てしまっている、という場合もあります。

でも「ありがとう」と言葉にだして感謝を伝えつづけることにより、自分も変わり、相手もまわりも変わっていく。

そんなことを気がつかせてくれる話しでした
  1. 2011/10/22(土) 16:16:26|
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いのちいただく

「心を込めて『いただきます』『ごちそうさま』を」




その絵本の帯に、一人の名も無い主婦のメッセージが書かれていた。

「朗読を聴いて、うちのムスメが食事を残さなくなりました」

絵本に食肉加工センターの「坂本さん」という人が登場する。実在の人物である。

坂本さんの職場では、毎日毎日たくさんの牛が殺され、その肉が市場に卸されている。牛を殺すとき、牛と目が合う。そのたびに坂本さんは、「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。

ある日の夕方、牛を荷台に乗せた1台のトラックがやってきた。「明日の牛か…」と坂本さんは思った。

しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。不思議に思って覗いてみると、10歳くらいの女の子が、牛のお腹をさすりながら何か話しかけている。その声が聞えてきた。

「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ…」

坂本さんは思った。

「見なきゃよかった」

女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。

「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。だけん、ずっとうちに置いとくつくもりでした。ばってん、みいちゃんば売らんと、お正月が来んとです。明日はよろしくお願いします…」

「もうできん。この仕事はやめよう」

と思った坂本さん、明日の仕事を休むことにした。

家に帰ってから、そのことを小学生の息子のしのぶ君に話した。しのぶ君はじっと聞いていた。

一緒にお風呂に入ったとき、しのぶ君は父親に言った。

「やっぱりお父さんがしてやってよ。心の無か人がしたら牛が苦しむけん」

しかし坂本さんは休むと決めていた。翌日、学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。

「お父さん、今日は行かないけんよ!(行かないといけないよ)」

坂本さんの心が揺れた。そしてしぶしぶ仕事場へと車を走らせた。

牛舎に入った。坂本さんを見ると、他の牛とおなじように、みいちゃんも角を下げて威嚇するポーズをとった。

「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。ごめんよう」

と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。

殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。坂本さんが、「じっとしとけよ、じっとしとけよ」

と言うと、みいちゃんは動かなくなった。

次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。

牛の涙を坂本さんは初めて見た。




その小学校(熊本県)では、助産師として日々キラキラと輝く命の誕生の瞬間に立ち会っている内田美智子さん(福岡県行橋市)と、酪農家が心を込めて育てた牛を毎日解体している坂本さんのお2人をお招きして、「いのち」のお話を聴くという授業をしたのだった。

その絵本は、坂本さんの話を聴いて感動した内田さんが、坂本さんにお願いして出版させてもらったのだそうだ。

その「いのちをいただく」(西日本新聞社)のあとがきに、内田さんはこう書いている。

「私達は奪われた命の意味も考えず、毎日肉を食べています。自分で直接手を汚すこともなく、坂本さんのような方々の悲しみも苦しみも知らず、肉を食べています。『いただきます』『ごちそうさま』を言わずにご飯を食べることは私たちには許されないことです。感謝しないで食べるなんて許されないことです。食べ残すなんてもってのほかです…」




という話しです
食べ残して廃棄したり、好き嫌いで処分したり、当たり前のようにしてしまってきました。

作ってくださった方に感謝、命あるものを戴いていることに感謝。
  1. 2011/10/22(土) 01:21:38|
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奇跡のような出会いに感謝して

目が覚めたら生きていた。
朝起きたらもうご飯ができていた。
窓を開けたら美味しい空気があった。
毎日ご飯が食べられる。
買い物に行ったら欲しいものが買えた。
美味しいものを食べて美味しいと感じる。
結婚して子供が生まれた。
子どもがすくすく育っている。……



「こんなこと、当たり前だと思ったら大間違いです。世の中に当たり前のことはたったひとつしかないんです。それは、産まれてきたすべての命には必ず終わりがあるということ。それだけが当たり前のことで、それ以外のことはすべて奇跡なんですよ」




助産師の内田美智子さんがこう話していた。
内田さんとは、以前紹介した『いのちをいただく』の著者。

この年末から年始にかけて、内田さんは連日新しい命を取り上げた。
その中には15歳の少女もいた。
分娩室で彼女は「痛い、痛い!」と泣き叫びながら、やっとのことで3000グラムを超える大きな赤ちゃんを産んだ。

妊娠に至った経緯には、言うに言えない事情があった。
しかし、産まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら、少女は「ママよ、私がママよ」と何度も語りかけていたそうだ。

しばらくして、ずっと寄り添っていた、30代後半だろうか、40台前半だろうか、
若くして祖母になったばかりの母親に向かって言った。
「ママ、ありがとう」

同じ頃、国会議員の野田聖子さんが不妊治療の末、
50歳にして男の子を出産した。
(このニュースは賛否両論で難しい話しです)

「50歳だろうが、15歳だろうが、生まれてきた子は乳飲み子。手がかかるのは同じ。周囲のサポートは同じように必要です。
中学生だろうが、国会議員だろうが、母親は一人しかいないんです。育てられることに感謝して欲しい」

と内田さんは言う。



30年以上もお産の現場にいる。
そこは「おめでた」ばかりではなかった。


妊娠が分かってから女性は約10ヶ月の月日を経ながら、少しずつ「母親になる」という決意をしていく。
それは自分の命を賭けて産むという決意だ。


わずか50年前、約2000人の母親がお産のときに命を落としていた。
内田さんが助産師になった30年前は300人、一昨年でも35人の母親が自らの命と引き換えに子どもを産んだ。




死産もある。
ある妊婦は10ヶ月目に入って胎動がしなくなったことに気が付いた。
診察の結果、胎児は亡くなっていた。
でも、産まなければならない。

普通、お産のとき、
「頑張って。もうすぐ元気な赤ちゃんに会えるからね」と、妊婦を励ますが、死産のときには掛ける言葉がないという。
泣かない子の代わりに、母親の泣き声が分娩室に響き渡る。

その母親は内田さんに「一晩だけこの子を抱いて寝たい」と言った。
真夜中、看護師が病室を見回ると、母親はベッドに座って子どもをだいていた。

「大丈夫ですか?」と声を掛けた看護師に、母親は、「今、お乳をあげていたんですよ」と言った。

見ると、母親は乳首から滲み出てくる乳を指に付けて、子どもの口元に移していた。


「このおっぱいをどんなにか、この子に飲ませたかったことか。泣かない子でも、その子の母親でありたいと思うのが母親なんです。何千年の時を経ても母親は母親であり続けるんです。」
と内田さん。

父親・母親世代に内田さんは、「子育ては時間が取られるなんて思わないで。育てられるだけでも幸せなことなのよ」
と語り、学校に呼ばれたときには、「お母さんは命賭けであなたたちを産んだの。だからいじめないで。死なないで」

と子ども達に訴える。



「命が大切なんじゃない。あなたが大切なの」と。




自分は子供を持つ親ではないので、キレイ事や気の利いたことは言葉は言えません。
でも、このニュースを教えていただき涙が出ました。

タイトル「奇跡のような出会いに感謝して」ですが、出会いとは、まさに「奇跡」だと思います。
両親と出会えた事も「奇跡」、自分が生まれてきた事も「奇跡」。

そう考えるとなんだか幸せな気持ちになってきます。
せっかくの「奇跡」を大事にしていきたいですね。

ちなみにみやざき中央新聞は、購読者の半数以上が県外の方だそうです。
この新聞には、事件や事故の話は一切載りません。
「いい話」だけを、毎週送ってるそうです。
『日本一心を揺るがす新聞の社説』として本になっているそうです。
買ってみようかな。
  1. 2011/10/20(木) 18:42:09|
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尾崎ハウス




尾崎ハウス

この言葉を聞いたのは何年ぶりだろう?




80年代に「10代の教祖」として絶大な人気を誇り、92年に急逝した歌手尾崎豊(享年26)をしのぶ場所としてファンに愛されてきた東京・足立区の民家、通称「尾崎ハウス」が、取り壊された。

亡くなる直前、この家の庭で倒れているのが発見された。以来19年間、全国から訪れるファンの交流の場として、住人の小峰忠雄さん(72)が家の一室を開放していたが、このほど老朽化などから建て直すことに。

ファンと小峰さんにとって思い出が詰まった家だが、築65年以上の老朽化もあり、息子夫婦との2世帯住宅に建て替えるという。




ある一人の女性が毎日ここに訪れてきたことがきっかけで、小峰さんは家の一室を開放した。いつしか家は「尾崎ハウス」と呼ばれ、ファン同士の交流の場になった。19年間でファンが書き込んだノ





ートは70冊以上に及んだ。

最近は訪れる人の数も少なくなったことや、老朽化もあり命日と誕生日のみの解放になっていた。

取り壊しが決まってからは、再び1日10〜15人は来るようになったという。意外なのは「さみしい」という声より「ありがとう」の声の方が多いことだ。「先日は宮城の被災者の方から花束が届いた。お疲れさま、と言ってくれる人もいる」という。

ハウスにあったノートやポスターは、ファン有志が預かり、足立区で開催予定のメモリアル展で展示されるとのこと。




素敵な話しですよね。だって尾崎が活動していた期間よりもずっと長く、部屋を解放していたんですよ。

たまたま、ここに倒れていた見ず知らずの人のファンのために。

小峰さんも、尾崎から「卒業」なんですよね。

みんなのココロには変わらずありつづけてます。

  1. 2011/10/16(日) 23:48:07|
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