泣けるまぁちゃんねる

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父にあげたい表彰状

昔、鳥取県で青少年主張コンクールで 1300人の中から鳥取県知事杯をもらったのが 中学校二年生の女の子でした。
 
その演題が「父へあげたい表彰状」です。
気になる内容はというと
 
 
 
 
今日のお昼は弁当か・・ イヤだなあ〜〜。
私は父が弁当を作ってくれる度にそう思いました。父が立つ台所からコツコツと包丁の音が聞こえてきます。
 
私には母がいません。
そのお弁当をもって学校へ行きお昼にみんなと一緒お弁当を食べるのがとても恥ずかしかったです。
 
隣の人の弁当を横目で見ると私の弁当よりたくさんのおかずが入っています。
おにぎりもキチンとした三角形で彩りもよくとても美味しそうです。
 
私は本当に羨まく思いました。
 
ところが家に帰るとお父さんが「今日のお弁当は美味しかったか?」と必ず私に聞きます。
お父さんが心配してくれているのが分かっているので、友達のお弁当のことは胸にしまって“美味しかったよ”答えていました。
 
ある時遊びに夢中になって転んで家に帰って見たらズボンが破れていました。
私はお父さんが怒ると思っていたら、寂しそうにしている私を見て「お前は元気があっていいなあ〜!お父さんが縫ってやるからそのズボンをかせ!」と言いました。
お父さんは針と糸を持って縫い始めました。
お父さんの手はとても大きくて縫い方も大雑把です。
縫っているというよりは針を布に突き刺している感じでした。30分もかけて直したズボンはミミズが這ったような大きな縫い目なので、このズボンを履かなくてはならないと思うとイヤでイヤでたまりませんでした。
 
お父さんは常々「お前は優しい心を持った人になって欲しい!友達を大切にしろ!」といつも言っていました。
(彼女は家計を助けるための小学四年生の時から新聞配達を始めていたそうです。)
 
「朝早く起きることが一度も出来ませんでした。
いつでも父に起こしてもらいました。
雨や雪の日は配達に二時間くらいかかることもありましたが、帰りの遅い私を心配して迎えに来てくれました。」
 
彼女は5年間皆勤賞で新聞配達を終わることが出来ました。
 
そして皆勤賞で新聞少年の日に東京で表彰された時、この表彰状をもらった時に彼女の思いが変わります。
 
この表彰状は私がもらったのではない。
 
父と二人でもらったものです。
 
いいえ、本当は父にあげたい表彰状です。
 
(思いが変わるとどうなるか・・)
 
「父が作ってくれるお弁当は最高に美味しい!こころのこもった弁当だと私は分かるようになりました。今ではそのお弁当を誰が作ったのと聞かれたら“お父さんよ!”と堂々と答えることが出来ます。ズボンもみんなの前で堂々と履くことが出来ます!父から堂々と生きることを教えられました。私はもう恥ずかしくありません。恥ずかしいことは何もしていません!」
 
自分はお父さんに支えられて生きて来れたと気がつきました・・・
 
 
 
 
という話しです
この女性はこの気持ちを忘れることなく素敵なお母さんになったそうです
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  1. 2011/11/30(水) 21:25:47|
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生まれ変わって「今」がある

子どもの頃、その少年は「ヨシちゃん」と呼ばれていた。

ヨシちゃんが生まれたのは、田舎町からさらに幾重にも連なる山の向こうの、まるで宮崎駿監督のアニメ『もののけ姫』が出てきそうな山奥の小さな集落だ。

生まれたとき、ヨシちゃんの足は曲がっていた。

頭は水頭症のように腫れて柔らかく、眼球は安定せず、乳を吸う体力もなかった。

生後3ヵ月も経てば座る首も、なかなか座らなかった。

田舎の病院では病名が付けられず、周囲からは「先祖のたたりでは?」とささやかれた。

ヨシちゃんの成長を妨げたのは骨のもろさだった。

ちょっとした力が加わると音を立てて折れた。

幼少期に骨折した回数は30回近くにも及んだ。

その度に激痛が走った。

両親も、祖母も、そんなヨシちゃんが不憫でならなかった。

ヨシちゃんには、大人も驚くような才能が一つあった。

歌声だ。

歌のうまさは誰もが称賛した。

村祭りや宴会があるとヨシちゃんはスターだった。

得意な『岸壁の母』を歌って村人たちを楽しませた。

小学校に入る頃、病名が分かった。

先天性骨形成不全症。

2万人に1人の割合で発症する原因不明の難病だ。

骨が折れやすく、なかなか身長が伸びない。

ヨシちゃんは養護学校に入学し、寄宿舎生活となった。

4年生頃になると病状も落ち着き、骨折もしなくなったので、地元の小学校への転入が認められた。

この上ない喜びを感じた。

その後も入退院を繰り返した。

養護学校高等部の3年にもなると、随分元気になり、進学も夢ではなく、現実のものとなった。

迷わず音楽大学を選んだ。 続きを読む
  1. 2011/11/23(水) 06:29:58|
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フランス料理屋さん

以前紹介した「雪江ちゃんとの最後の約束」この中で登場した、かっこちゃんの他のエピソードを紹介します




錦城養護学校にいたときのお話です。

作業で作った製品の売り上げの一部で一年に一度、打ち上げ会をします。

今年はボーリングの後、片山津のラウィーブというフランス料理やさんへ出かけました。

一年の作業の売り上げと言っても、それほど多い額ではありません。

まして、その一部となると本当にわずかな額ですが、それでも、その額でなんとか子どもたちにコースのお料理を用意していただけないかというあつかましいお願いを、前もっておそるおそるしてあったのです。

店長さんはすぐに、「いいですよ。お待ちしています」とお返事をしてくださいました。

私たちはそれから、「もう一週間でフランス料理だね」「いよいよあと三日だね」とそれはそれは今日の日が来るのを心待ちにしていました。

お店の前には、とてもおしゃれな雪だるまが私たちを出迎えてくれました。

目はワインのコルクの栓でできていました。

頭には、エーゲ海のお日さまを思わせるような(フランスはエーゲ海に近いのかどうか、地理が驚異的ににがてな私にはわかりませんが)大きなメダルのようなものが取り付けてありました。

もうそれだけで、まりちゃんや私はうれしくてなりません。

ドアには、「ランチタイムは貸切になっています」という札がかけられてありました。

どきどきしてドアをあけるとそこには、とてもやさしそうな男の方が二人と、女の方が一人、私たちを待っていて下さいました。

「貸切にしましたので、遠慮なさらずにごゆっくりどうぞ」という声に、十五人という大人数で押し掛けて申し訳ないような、それでいて、こんなふうに私たちがゆっくりできるようにと考えてくださったことがとてもうれしかったです。

テーブルはもうすてきなセッティングがされていました。

そして、驚いたことに一人ひとりのところに、お店の方からのとてもおしゃれなお手紙がおかれてあったのです。「錦城養護学校のみなさん。今日は来てくださってありがとうございます。
私たちはこの日がくるのを楽しみにまだかまだかと待っていました。
一所懸命用意をして待っていました。
フランス料理といっても、かたくるしくしないで、楽しく食べてください。
みんなで楽しく食べるととてもおいしいですものね。
楽しく食べてくれると、おにいさんもおねえさんもとてもうれしいです。
みんなもいつか働いてお金がもらえるようになったら、おお友達や家族の方をつれて来てください。
それまで、私たちはがんばってもっとおいしいお料理を作れるように勉強します」

それから、今日のメニューが英語で書かれてあって、その次に、それらひとつひとつが絵で描かれてありました。

コースのお料理は私たちが考えていた額ではとうてい食べられそうにないような気がして、金額を伝え間違えていたんだったらどうしようと心配になるくらいのものでした。

横の席にいたみきちゃんやまりちゃんに「私、お手紙読むね」と言いながらそのお手紙を読みだしたのですが、途中で胸がつまって困りました。

電話で予約させていただいた私たちのために、こんなに丁寧で、心のこもったお手紙を一人ひとりの席に用意してくださったこと、おそらくはドアの前の雪だるまもそのひとつだったのだとわかりました。

お手紙の中の「まだかまだかと待っていました」ということは、手紙だけでなくて、本当にそうなのだわと思いました。

それから、私たちがフランス料理だからとかたくなって楽しく食べられないといけないと配慮してくださったこともうれしかったです。

だってもし、(「あつ、あんな食べ方してる」って思われたらどうしよう)って考えたら、緊張して本当においしく楽しく食べられないものね。 続きを読む
  1. 2011/11/19(土) 16:08:21|
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パトカーに乗った花嫁

大分市までの高速道路、約40分くらい前の所に安心院(あじむ)という名の場所があり、そこに一台の車が煙を出して停まっていました。
 
高速道路機動隊の警察官がそれを見て、事故だと思いサイレンを鳴らして急行しました。
 
警官が駆けつけたところ、それは事故ではなくオーバーヒートで エンジンから水蒸気が上がってしまった故障車でした。
 
警察官が車の中を見て驚きます。
 
車の中には、白無垢を着た花嫁さんがお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに挟まれて、座っています。
 
また運転されていらしゃる方もご高齢な方です。
 
事情を聞くと、今から大分市内のホテルで行われる披露宴へ行く最中だと言うこと。
 
花嫁さんは白無垢の衣装で荷物は持っていなく携帯電話で連絡をすることも出来ません。
 
皆、着物や羽織袴なので歩いて行く事もできず立ち往生してしまい、花嫁さんは披露宴に出れないと泣いています。
 
警察官は聞きます「どこのホテルですか?」
 
「大分市内の東洋ホテルです」
 
「何時からですか?」
 
「○○時からです」(あと45分くらい余裕がありました。)
 
ところが・・・パトカーというのは上司の許可を得ずに業務以外(防犯・取り締まりう)のことに使うと業務違反で内部処分されるのです。
 
心無い人からの批判の的になったりもします。
 
しかし警察官は言います。
「我々の車に乗りなさい。我々が結婚式場まで送ってあげるから安心しなさい。残ったお祖母ちゃん、お祖父ちゃんも 我々の助けの車が来るから、ちょっと待っていてください」
 
と言い残し、花嫁を無事に披露宴会場まで送り届けて花婿と握手をして敬礼して帰っています。
 
 
 
 
これで済めば良かったのですが、これを見て感激した親族の一人が写真付きで新聞に投稿したところ「パトカーに乗った花嫁さん」とデカデカと載ってしまい、この警察官の業務違反が皆の知るところとなりました。
 
翌日、警察署には600通を越える電話やファックスがありましたが、「よくやった」、「こんなに素晴らしい警察官に守られている我々大分市民は幸せだ」、「こんな優しい心をもった警察官をもっと育てて下さい。」
 
といったものばかりで非難の内容のものは一通もなったそうです。
 
大分県警ではこの市民からの手紙やファックスを 若い警察官に見せたところみんなの顔色が変わってより一層真摯に、大分県民の為に職務を遂行するようになりました。
 
と大分県警の幹部の方はおっしゃったそうです。
 
 
 
 
という話しです
たしかに、こんな気が利いた警察官がいると思うと心強いよね
 
隠れて取り締まったりするのも任務かもしれないけど、市民の安全を守ったり、本当に困った人を助けてほしいよね
 
 
でも、最近だとパトカーや救急車をタクシー替わりに使う人が問題化してるから、この話しでそんな人が増えないといいな 
  1. 2011/11/17(木) 14:13:16|
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愛でしかかわらんと

『女、金八先生』といわれた、香葉村真由美さんの話しです。

「先生見本市」というイベントにも出演された方です。

ちなみに2回目のイベントの名前は「あこがれ先生プロジェクト」に変わっています。




香葉村先生の最初のクラスにサヤカという子がいました。

卒業してずいぶんたったある日、23歳になったサヤカが久々に香葉村先生の所に遊びに来てくれました。

クラスのリーダー的存在だったサヤカでしたが、とても痩せてしまっていて、手首にはリストカットの跡が…

香葉村先生は、言いました。

「サヤカ、命はひとつしかないんだよ。大切なひとつなんだよ。頑張らなきゃ」

サヤカは言いました。

「わかっているよ。頑張るよ」

別れ際、香葉村先生はもう一度言いました。

「サヤカ、頑張るんだよ」


数ヵ月後、サヤカは自ら命を絶ちました。

しかも、サヤカが最後に会った大人は香葉村先生だったのです。

香葉村先生は、自分を責め続けました。

彼女は、自分を受け入れてもらいたくて来たに違いない。『よく頑張ってきたね』と、ただ黙って抱きしめてほしかったはず…

にも関わらず、私は「頑張ろう」「命はひとつしかない」と、教科書どおりの言葉を使っていた…


一人の子どもが救えなくて、多くの子が救えるわけがない

自分を責め続け、どん底にいた彼女を救ったのは、「107+1〜天国はつくるもの〜」という映画でした。


描かれていたのは、夢を追い求めて力強く生きる人たちの姿。

涙が止まらなくなった香葉村先生…

「もう一度、夢を追いかけて生きてみたい」という思いが湧き上がってきたのです。


香葉村先生は、6年3組の担任になりました。

クラスにシュウという男の子がいました。

シュウは1年から4年まで辛いいじめに遭っていたのですが、5年生になると急に攻撃的になり、その行為はエスカレートしていったのです。

クラスメイトを叩く、殴る、暴言を浴びせかける…

みんなは 「シュウをなんとかしてください」と訴えます。

香葉村先生も何度も話したり、怒ったり、褒めたり…と、手を尽くしましたがダメでした。

逆に蹴られ、つばや砂をかけて反抗されるばかりでした。

香葉村先生は、悔しくて情けなくて、自宅に帰ってから大声で泣きました。

その次の日、シュウは休み。香葉村先生はみんなに伝えました。

「ごめんなさい。先生一人ではどうすることもできない。でも、先生はあきらめきれない。人を信じること、好きになることをみんなでシュウに教えてあげてほしい。そのかわり、先生はみんなを全力で守るから…」

子ども達は大きく変わりました。

シュウの行動を受け入れてくれるようになったのです。

叩かれてもジッと我慢し、叩こうとするシュウに「怒っているんだね。でも、人を叩いたらいかん」と、毅然と言い放つ子も出てきました。

その姿を見て、命を懸けてシュウにぶつかることを決意した香葉村先生。


そんなある日、シュウが香葉村先生に質問してきました。

自分が、なぜこんな態度をとるようになったか分かるか、と。

「わからない。何があったの?」

…沈黙の後、シュウが言いました。

「俺は、俺は、ただ友達が欲しかっただけなんだ!」

そう言うと、シュウは大声で泣き始めました。

香葉村先生はシュウが愛おしくて、いつまでも抱きしめていました…。

シュウが笑顔を見せ、みんなに心を開くようになったのは、それからです。




香葉村先生がよく言う「人は愛でしか変わらない」本当にそうだと思います。子供の本当の声・心の声に耳を傾け、受け止める。そうすればきっと子供たちも私たちの言葉に耳を傾けてくれるでしょう。

今の子供が何を考えているのか分からない。と言いますが、実は、私たち大人が子供の本当の声を聞こうとしてなかったのではないか?

そんな思いをこの話しを通して教わった気がします。
  1. 2011/11/14(月) 23:38:58|
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人であふれた駐車場

私は大学を卒業後、就職した会社をたった一日でやめました

何のために働くのか、どうしても分からなかったのです。その答えを見つけるために、自分で仕事をはじめました

わからないながらも必死で働きましたが、何かがうまくいきません

いつも中途半端で、本気になれない自分がいました

夢を持つことができないまま、ただ毎日を過ごしていました

当時、私は事務所のある新宿まで、毎日車で通っていました

近くの駐車場には、六十を過ぎたくらいの管理人のおじさんがいました

「おはようございます! 今日も天気でいい一日ですね」

おじさんはいつも明るい笑顔で、年齢に似合わずシャキシャキと仕事をこなしています

ある日駐車場についたら、外はひどい土砂降りになっていました

困ったなあと車から降りられずにいると、おじさんが走ってきました

「傘忘れたんじゃない?これ持っていきなよ」

「でもそれって、おじさんの傘でしょ?」

「私のことは気にしなくていいんですよ」

おじさんはいつもこんな調子で、お客さんのことばかり考えてくれる人でした

駐車場は満車になることも多く、おじさんはいつも看板の前であやまっていました

「満車です。申し訳ありません」

「やっと見つけたのに、困るんだよ!」

中には文句をいう人までいます

「本当に申し訳ありません」

おじさんはいつも車が見えなくなるまで、少し薄くなった白髪頭を下げ続けていました

ある日、いつもと同じように車を止めようとしたとき、おじさんの笑顔がないことに気づきました

「実は今週いっぱいで、この仕事をやめることになったんです」

「え!?どうしてですか?」

「妻が肺を患っているんです。空気のきれいな田舎で二人でのんびりと暮らすことにしました。これまで本当にいろいろとお世話になりました」

そういっておじさんは、深々と頭を下げました

「お世話になったのは、こっちのほうですよ」

私は何ともいえない寂しさをおぼえました今日が最後というその日、私はおじさんへのちょっとした感謝の気持ちで、手みやげを持っていきました

そして駐車場についたとき、信じられない光景を目にしたのです

小さなプレハブの管理人室の窓からは、中がまったく見えません

色とりどりの花束がつみ上げられていたからです

ドアの横には1メートル以上の高さになるほど、おみやげがつみ重ねられています

たくさんの花束とプレゼントに彩られて、管理人室はまるでおとぎの国の家のように見えます

駐車場の中は、たくさんの人でごった返し、あちこちから声が聞こえてきます

「おじさん、いつも傘を貸してくれてありがとう!」

「あのとき荷物を運んでくれて、とても助かりました!」

「おじさんに、あいさつの大切さを教えてもらいました」

人ごみの中には、笑顔のおじさんがいました

みんなが次々と、おじさんと写真を撮っています

おじさんと握手をして、ハンカチで目を覆っている人もいます

おじさんは一人ひとり目を合わせ、何度も何度もうなずいていました

私は列の最後にならんで、おじさんと話す機会を待ちました

「おじさんにはいつも感謝しています。毎朝とても気持ちよく仕事に取りかかることが出来ました」

「いえいえ、私は何もしていませんよ。私にできることはあいさつをすることと、あやまることぐらいです。でも私はいつも、自分が今やっている仕事を楽しみたい、そう思っているだけなんです」

「仕事の最後の日、自分がこれまでどのように仕事に関わってきたのかをまわりの人が教えてくれる。つまらない仕事なんかない。仕事に関わる人の姿勢が、仕事を面白くしたりつまらなくしたりするんだ」

私はそんなことを、おじさんから学びました

働くすべての人が、働くことの本当に意味に気づき、輝いた人生を送るきっかけになりますように



つまらない仕事なんかない。仕事に関わる人の姿勢が、仕事を面白くしたりつまらなくしたりするんだ、という台詞は、まさにその通りだと思います
みんながそういった気持ちで仕事も楽しくなるし、職場の雰囲気もよくなり、効率もよくなっていき、いろんな面でプラスに働いていくと思います
  1. 2011/11/11(金) 13:09:30|
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300円のプレゼント

自分の事ではありませんが、素敵な話しを教えていただいたので紹介します
 
 
 
 
私は昨日小学4年生の子から手紙で相談を受けました。
 
『僕のお母さんに元気になってほしくてプレゼントをあげたいんだけど僕のお小遣いは300円しかありません。この値段で買えて女の子が喜ぶのは何ですか?』という内容でした。
 
その子の母親はガンで長く生きられないのです。男の子はその事実は知りません。
 
私は今日デパートに男の子を連れていきました。
 
『お母さんダイエットしてるのかな?ご飯全然食べないし無理して笑ってるみたいなんだ…ダイエットのやつ買えるかな?』
 
『靴買えるかな?お母さんと水族館行きたいな』
 
『手紙かぁ…恥ずかしいよ!でも書いてみるね。うん、折り鶴に書いてみる!』
 
『お花買えるかな?でも枯れたら悲しいからサボテンにしようかなぁ』
 
『お母さんの手冷たかったら手袋買えるかな?でも、冬しか使えないよね?』
 
『お母さん、キャビア食べたいって言ってた!買えるかな?』
 
その子の母を思う言葉一つ一つに涙が出そうになりました。
 
『僕、靴にする!お母さんといろんな場所に行きたいんだ!』
 
靴なんてとても300円程度では買えません。私はその子がトイレな行ってる間に靴売り場に行き事情を話し300円で買えるようにお願いしました。もちろん後から足りない分は私が払うつもりでした。店員は快く了解してくれました。
 
その子を連れて靴売り場に行くと300円均一と紙に書いてありました。急いで作ったのか雑でしたが胸が熱くなりました。
 
『これにする!』選んだのは白いヒールの靴でした。
後で払おうとしたら『300円ですからちょうどですよ』と笑顔で言われました。
 
感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。 
『早くお母さんの喜ぶ顔がみたい』と言われ早速、病気に向かうことになりました。
 
『お母さんプレゼント!!』大きな声で笑顔で病室のドアを開けました。驚いて中身を見て母親は泣き出しました。
 
『ありがとう…でも、ごめんね。お母さん、もう靴を履いて出かけられないかもしれないの…死んじゃうかもしれないの』
 
男の子は驚いた顔をし、うつむきこう言いました。
 
『一生懸命生きた人間は星になるんだ!一生懸命輝いた星は人間に生まれかわるんだよ。空を見ればお母さんがいるから寂しくないよ!でも一生懸命に生きないとダメだから諦めないで頑張ろう!僕、お母さんと水族館行きたいんだ!ずーと、履けるように大きいの買ったよ』
 
母親は涙をふき笑顔で男の子を抱き締めました。
 
もし病気などで諦めている方、男の子の言葉を思い出して下さい。諦めず頑張る事まだ幼い子でも大切だと言っています。
 
諦めないで頑張りましょう!
 
 
 
 
という話しです
以前紹介した『一粒のぶどう』に通じる所がある素敵な話しで読んでいて胸が熱くなりました。
 
みんなのココロにも響いたかな?
  1. 2011/11/10(木) 18:13:08|
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優しい記憶

結婚式にまつわる素敵な話しを教えていただいたので、ぜひ読んでください。芸能人の方も注目してるくらいですから。




先日、お手伝いさせていただいた結婚式で
とっても素敵なキセキが起きました。

お父様のことがとても大好きなご新婦。

一足さきに海外で挙げた結婚式でお父様とバージンロードを歩いた時の幸せだったそのときの気持ちを嬉しそうに何度もお話してくだいました。

バージンロードを歩くご新婦とお父様のお写真も見せて頂き、お父様の表情を見ていたら、きっとお父様も愛する娘へ伝えたいお気持ちがたくさんあるんだろうなぁと感じました。

花嫁の父こそきっと心に秘めた様々な想いがたくさんあるはず。

でも、なかなか披露宴の中で花嫁の父が想いを伝える機会はありません。

なければ、つくればいい。

というわけで、ご新郎のご協力のもとご新婦のお父様へ連絡をし、愛する娘へ伝えたい素直なお気持ちをお手紙につづってきて頂くお願いをしました。

照れくさくて無理、と断られるのも覚悟していましたが思いのほか、「伝えたいことがたくさんありすぎてうまくまとめられるかな・・」という前向きなお答え。

披露宴当日、お父様のお席へご挨拶へうかがいました。

「お手紙、、、、書いていただけましたか?」

そんな私の質問に照れくさそうに胸ポケットから取り出したのは、くしゃくしゃの紙。

それは、何度も何度も書き直し、読み返した跡の残るくしゃくしゃになったお手紙でした。

そのくしゃくしゃの手紙を見た瞬間、何だか色んなお父様の想いが伝わってきて思わず胸があつくなってしまいました。

披露宴も終盤。

本来なら花嫁のお手紙の時間。

「ここで、新婦から感謝のお気持ちを込めてご両親へお手紙を・・といいたいところですが、その前に・・」

お父様にスポットがあたります。

驚くご新婦。

ざわめく会場。

前代未聞の花嫁の父のお手紙の朗読です。




「娘が生まれるとわかった瞬間、嬉しくて嬉しくて・・」

「幼いころはおてんばだった君、怪我をしないか毎日気が気じゃなくて・・・」

溢れ出す愛が溢れた想い出話に新婦も会場のゲストも涙を流しながら聞き入り本当に温かい優しい空気が会場を包んでいました。

そして、こんなエピソードが。

「君は小学生のころ、学校でいじめに合っていました。毎日泣きながら帰ってくる君。学校に行きたくないと駄々をこねる君を厳しくしかってしまったこともありました。けれど、君が眠りについた後、厳しくしかってしまったことを後悔しながら君の寝顔を眺めながらこの子だけは何があっても守りぬかなくてはどんなことがあっても自分はこの子の味方でいようと、頬を撫でて語りかけていたものでした。」

このエピソードがお父様の口から語られた瞬間、ご新婦は堰をきったように顔を覆って涙されました。

その理由はすぐにわかりました。

いよいよ、花嫁からのお手紙。

そのお手紙の中になんとこんなエピソードがありました。




「私が小学生の頃、学校でいじめに合っていました。つらくてつらくて、学校に行きたくなくて、そうお父さんに伝えると厳しく怒られたこともありました。でも、泣きながら私がお布団に入ってしばらくたつとお父さんはそっと私の隣にやってきて、私のほっぺたを何度も撫でてくれましたね。その手があったかくて優しくてとても安心して、明日も頑張ろうと思えました。お父さんはきっと今日まで私がすっかり寝ていると思っていたと思うけど、、本当は私、毎晩、起きていたんですよ。お父さん、あのときはありがとう」

そういって、にっこりとお父様のほうに笑いかけるご新婦。

今度はお父様が顔を覆って涙される番でした。

何十年ぶりに魔法が溶けたように明かされたある日の父と娘の素敵な記憶。

お父様からのお手紙とご新婦からのお手紙とその両方のエピソードが重なった瞬間、幼い新婦の頬を撫でて優しく語り掛けるお父様と、寝たふりをしながらそんなお父様の気持ちを嬉しく感じている父娘の姿が、その情景が鮮明に浮かんできて、、、

私は、、、、

会場の隅のPA室の裏に隠れて、、、

涙が止まりませんでした。

会場もこの素敵な偶然のキセキに感動に包まれ父娘に贈る温かく優しい拍手がしばらく鳴り止みませんでした。

そこにいる人のすべての心がひとつになった瞬間。

〜 One Heart Wedding  〜

まさに体感した瞬間でした。
  1. 2011/11/07(月) 23:23:33|
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日本で一番大切にしたい会社

従業員50名のうち、およそ7割が知的障がいをもった方々で占められている会社が川崎市にあります。
 
日本理化学工業というチョークを製造している会社です。
 
昭和34年のある日、近くにある養護学校の先生がこの会社を訪ねて、今年卒業予定の障がいをもつ少女2名をこの会社で採用してほしい、と頼みにきました。
 
しかし、人を採用するということは、その一生を幸せにしてあげないといけない、という思いがあり、社長はその自信がなかったのです。
 
「お気持ちはわかりますが、うちでは無理です。申し訳ございませんが・・・」。
 
しかし、先生はあきらめず、何度も頼みに来ました。
 
最後の訪問のときには、「就職が無理なら、せめてあの子たちに働く体験だけでもさせてくれませんか?そうでないとこの子たちは、働く喜び、働く幸せを知らないまま、施設で死ぬまで暮らすことになってしまいます。あの子たちは健常者よりも平均的に寿命が短いんです」と先生は言いました。
 
頭を擦りつけるようにお願いしている先生の姿に感動した社長は、「一週間だけ」という条件で就業体験をさせてあげることになりました。
 
二人の少女は、雨の降る日も風の強い日も、8時開始の会社に、毎朝7時に玄関に来ていました。
 
そうして1週間が過ぎ、就業体験が終わろうとしている時、「お話があります」と十数人の社員全員が社長を取り囲みました。
 
「あの子たちを、正規の社員として採用してあげてください。あの子たちにできないことがあれば、私たちみんなでカバーします。だからどうか採用してください。」
 
社員全員の総意だと言うのです。簡単なラベル貼りの仕事をさせていたのですが、とにかく彼女たちは仕事に没頭して一心不乱に、そして幸せそうに働いていました。その姿に社員たちは心がうたれたのです。
 
彼女たちは会社で働き始めました。
 
その後、その会社では障がい者を少しずつ採用するようになっていきましたが、社長には一つだけわからないことがありました。
 
どう考えても、会社で働くよりも、施設でゆっくりとのんびり過ごしたほうが幸せではないかと思えたのです。
 
そのことをあるお坊さんに聞くと、お坊さんはこう答えました。
 
 
「そんなことは当たり前でしょう。幸福とは、人に愛されること、人にほめられること、人の役に立つこと、人に必要とされることなのです。特に役に立つことと、必要にされることは、働くことで得られるのです」
 
 
この言葉は、社長にとって目からウロコが落ちるような考え方でした。
 
「生きる」とはこういうことだとわかったのです。
 
 
それからは、さらに積極的に障がい者を採用するようになり、なんと社員の7割を障がい者が占めるようになりました。
 
この会社を訪ねたお客様の応接室に、コーヒーを持ってきたおばあさんがいました。
 
「よくいらっしゃいました。どうぞコーヒーをお飲みください」
 
 
その白髪で腰のまがったおばあさんは、50年前に入社したあの少女だったのです。 
 
15歳くらいで採用していますから、もう65歳になっています。
 
彼女が会社に勤め始めて50年。
 
その彼女をあたたかく見守り、ともに働いてきた同僚たち。
 
最初の障がい者雇用について、「その子を一生面倒みられるだろうか」と悩んでいた社長の姿は、もうそこにはありません。
 
信念を貫きとおして実行し続けている、自信にあふれた苦労人ならではのやさしい笑顔がありました・・・。日本で一番大切にしたい会社、という話しの一つです
 
今でこそ、企業は国から積極採用を義務付けられているが、当時はそんな規則はありません
 
でも、そんな中にこうやって生き甲斐を見出だすことが出来た人達が社会で活躍出来ているなんていい話しですよね
 
 
  1. 2011/11/05(土) 02:06:19|
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一粒のぶどう

一歳の時から入退院を繰り返している、不治の病の少女がいた。

様々な治療の甲斐もなく、少女が五歳になった時、ついにターミナルケアに入った。

もはや為す術もなく安らかに死を迎えさせるための看護、それがターミナルケア。

ある日、医者が少女の父親に伝えた。

『もう、なんでも好きな物を食べさせてやって下さい。』

父親が少女に何が食べたいか尋ねると、『お父さん、ぶどうが食べたいよ』と、小さな声で答えた。

季節は冬、ぶどうはどこにも売っていない。でも、なんとかして少女の最後の小さな望みを叶えてあげたい・・・。

父親は、東京中のお店を探した。あの店もこの店も・・・。

だが、どこにも置いていない。

最後にデパートのフルーツ売場を訪ねると、きれいに箱詰めされた立派な巨峰を見つけた。

やっとの思いで見つけたというのに、父親は立ちすくんでしまった。なぜなら、その箱には3万円という値札がついていたからだ。

長年の治療費で、もうそんなお金残ってなかった父親は、悩み悩んだ末、店員に頼んだ。

『一粒でも二粒でもいい、分けてもらうわけにはいきませんか?』

事情を聞いた店員は、数粒をもぎ小さな箱に入れきれいに包装して差し出した。

『どうぞ、2千円です。』

父親は震える手で受け取り、病院へ飛んで帰った。

『ほら、おまえの食べたかったぶどうだよ』

少女は痩せた手で一粒のぶどうを口に入れた。

『お父さん、おいしいね。ほんとにおいしいよ』

そして、静かに息を引き取った。




この話は、聖路加病院に入院していた少女の父親と、高島屋の店員の実話だそうです。




感激した伊藤さんは、この話を主治医の細谷さんに話した。たまたま細谷さんは当時、毎日新聞家庭面で「パパの歳児記」と題した週1回のコラムを担当しており、コラムに「苦痛を軽くして良い時間をのばしてあげる方針で、彼女も家族も私たちもがんばっています。(中略)。気がついておられないかもしれませんが、私たちに神様と同じくらいの力を貸してくれたフルーツ売り場の人に、心からお礼を言いたいなと思います」と書いた。




一方、高島屋は創業百六十周年を機に、新たに企業行動の指針としての経営理念を策定することにし、この話が話題になった。日高啓社長は「理念とはもっと一般化すべきものだと、ブドウの話を入れることに反対の意見もあったが、この心をどうしてもわかってほしくて盛り込むよう指示した」という。




そうした経緯で「いつも人から」という、細谷さんのコラムを転載した小冊子が作られ、グループ全社員に配布された。伊藤さんは「周囲の人の温かい励ましに支えられてきた。こんな心を持った店員さんのいることを知ってもらえればうれしい」と話していたそうです。




お父さんの子供に対して、心からの想い

マニュアル通りではない、店員さんの心温まる行動

これが、約二万六千人のグループ社員の行動指針素敵となった、ココロに響く話しです
  1. 2011/11/03(木) 15:03:10|
  2. 泣ける日記
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