泣けるまぁちゃんねる

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勉強よりも、もっとすばらしいもの

以前も紹介しましたが「心ゆたかに生きる」の著者の林覚乗さんは、福岡県にある南蔵院(なんぞういん)住職です
 
法話が本やビデオになっているので知っている人も多いかもしれませんが、その中の幾つかをまた紹介します
 
 
 
 
勉強よりも、もっとすばらしいもの
 
 
私はある懸賞論文で、小松まり子さんという37歳のお母さんの作品を印象深く読まさせていただきました。
 
この方のお子さんは、足が不自由な方でしたが、車椅子で小学校に通った六年間の間、お父さんお母さんは一度として車椅子を押されたことがなかったそうです。
 
近所の子供たちが当番を決めて、六年間ずっと送り迎えをしてくれたそうです。
 
そして、中学に入るとき、一緒に普通の中学校に行けると思ったら、教育委員会からの「お宅のお子さんは施設に入れて下さい」という指示がきたのです。
 
そのとき、友達が猛反発をしました。
 
署名運動までして、中学校の校長先生を動かして、同じ中学校に通うことができました。
 
三年間また当番を決めて友達が送り迎えをしてくれました。
 
そして、小松さんの息子さんは体が弱いから欠席も多かったけれども、なんとか卒業までこぎつけました。
 
ところが、風邪をひいて、晴れの卒業式に出られなくなってしまいました。
 
そのときに「お母さん、小学校六年間、中学校を三年間支えてくれた友達に、僕、お礼が言いたい」と言って、朝、ベランダに出て卒業式に行く友達を見送りました。
 
みんなが手を振って、「お前の分までがんばってくるからな」と言って、卒業式に行きました。
 
お父さんが早く帰って来て、家で親子三人で卒業のお祝いをする約束でした。
 
昼ご飯どきにチャイムが鳴ったから、お母さんは、お父さんが早く帰って来たと思って飛んで行かれた。
 
そしてら、そこに立っておられたのは卒業証書を持った校長先生と各学年の先生方と友達でした。
 
そして、校長先生が「今から、お宅のお子さんの部屋で卒業式をいたいんですが、よろしいでしょうか」とおっしゃいました。
 
車椅子の息子さんとお母さんを前にして校長先生が卒業証書を読まれ、各学年の先生たちが「よくがんばったね」と握手をしてくれました。
 
友達が拍手で祝福してくれたときには、息子さんはうつむいて涙を流していました。
 
「私たちは、先生や友達の顔をまともに見ることができませんでした。
息子は三年間中学校で何を学んだかわかりませんが、優しさが人をすばらしい人間に変えていくということを学んでくれたから、それだけで十分です。
学校で習った勉強よりも、もっとすばらしいものをうちの子供は学んだ気がします。」
 
と、その懸賞論文の中に書いておられました。
 
 
 
 
という話しです
 
この子供は、なんて素晴らしい友達をもったことなんでしょう
 
優しさが、人を変え、人を動かす
 
そんなことを、この話しから学べました
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  1. 2012/01/31(火) 23:57:29|
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おもちゃ箱

まるで、トイレの神様のような話しです

これを読んで、思い当たる人もいるんじゃないかな?自分もその一人です




いつでも会えるってことは当たり前じゃない

子どもの頃夏休みになる度に母方のばあちゃん家に遊びに行っていた

ばあちゃん家は車で2時間くらいの山の中の集落

じいちゃんはとっくに死んでて一人暮らし

近くにおばちゃん夫婦が住んでて面倒みてた

俺が遊びに行く度にばあちゃんは喜んであれこれご馳走してくれた

俺専用のおもちゃ箱が置いてありプラスチックの野球セットとか虫かごとかが入ってた

『すぐ遊べるように洗っておいたよー』ばあちゃんはニコニコしながら言ってた

すぐ裏手が山だったのでカブトムシなんかもたくさんいてばあちゃん家は結構お気に入りの場所だった

でもそれも小学校高学年まで…

学校の友達と遊んでたほうが楽しいし、まして中学に入れば部活もあったし自然とばあちゃん家訪問は夏休みの行事から消えていった最後に行ったのは小5の時だったと思う

そんなのが寂しかったのか夏休みが近くなる度にばあちゃんから電話がかかってきた

母親から『たまに顔見せてこい』とも言われてた

その度に『う〜ん』と生返事をしやり過ごしていた

少しわずらわしくもあった

毎年そんな感じで中学、高校の夏休みを過ごし俺は大学生になっていた

大学3年の夏休み8月になったばかりの昼頃だらだら寝てた俺は母親から叩き起こされた

ばあちゃんが亡くなったらしいその日、おばちゃんがばあちゃん家を訪ねたところ台所で倒れていたらしい

亡くなったのは前日の夜、くも膜下出血との事

ばあちゃんの遺体が夕方、病院から戻るとの事で母親と妹の3人でばあちゃん家に向かう

車は俺が運転した

なんか現実感がない

ぼーっとしている

母親は助手席で黙りこくっている

妹は後ろで泣いていた

夕方頃、ばあちゃん家に着いて遺体と対面する

10年ぶりくらいの対面でも、ばあちゃんは冷たくて、白くて、小さい

泣き出す母親と妹の横で俺はやっぱりぼーっとしてる

頭にモヤがかかった感じ

涙は出てこない

(俺って冷たいのかな?)

そんなことを思ったりしていた

なんとなく居たたまれなくなって庭に出てみる

庭の隅にあるばあちゃんの納屋

子どもの頃よくここで遊んで怒られた

中に入ってみるといろんなものが置いてある

全部、ホコリまみれ

このホコリの匂いは子どもの頃と変わらない

足元に俺のおもちゃ箱を見つけるプラスチックのバッドボール、虫かご、ミニカー…




『?』




次の瞬間気付いた、これ一つもホコリが付いてない!

慌てて箱を抱えておばちゃんの所へ駆け出す

『おばちゃん、これ…?』

おばちゃんは最初怪訝な顔をしてたけど俺の聞きたい事に気付いて『それはねぇ、ばあちゃんが毎年、夏になると洗ってたのよ。Mちゃん(俺)がいつ来ても遊べるようにって…もう、そんな年じゃないよって言ったんだけどきかないのよねぇ』

おばちゃんは泣いたような笑顔だった

初めて泣いた

もう箱を抱えて

座り込んで大声で泣いた

10年もばあちゃんは俺を待ってた

俺のおもちゃを洗いながらずっと待ってたのに…

『遊びにおいで』

何十回も言ってたのになんでこんなに人は人のことを想い続けられるんだろう?



そして俺はそんな想いをこんな風に形にして目の前に出してもらわないと分からない

自分がくだらなくて愚かな人間に思えた

ばあちゃん、ごめんなさい

いつでも会えるんだからと後回しにしてたばあちゃんがいることが当たり前だと思ってた

それがずっと続くことが当たり前だと思ってた

ばあちゃん…

ほんとにごめんなさい



これを読んでて、自分のおばあちゃんが亡くなった時を思い出したよ

あの時の自分もたしかに同じ気持ちだった

そして今、おじいちゃんが大分しんどい状態

こないだ久々に逢って来たけど、もう長くは無いのがわかってる

自分も後悔しないようにしなくっちゃ
  1. 2012/01/31(火) 05:48:15|
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オレンジ色のチューリップ

6年ほど前の今頃は、花屋に勤めていた。

毎日エプロンをつけて店先に立っていた。




ある日、小学校1年生ぐらいの女の子がひとりで花を買いに来た。

淡いベージュのセーターにピンクのチェックのスカート。

肩の辺りで切り揃えた髪が、動くたびに揺れて愛らしい。

フラワーキーパーの前に立ち止まり、真剣な面持ちで花を選んでいる。

母の日でもないし、クリスマスでもないし、何のプレゼントかなぁと思って、しばらく様子を見ていた。

あっちを見たりこっちを見たり、あまりにも一生懸命でなかなか決まらない様子だったので、「誰かにプレゼントするの?お誕生日?」と声をかけてみた。

少女は首を横に振る。

「お母さんにあげる」と言う。

「お母さんお花が好きなん?」と聞くと、今度は首を縦に振る。

こんなおっさんが相手したら緊張して言葉にならないかなと思って、ニコニコ笑顔を頑張ってみた。

しかし、少女の口から思いがけない言葉を聞いて、胸がつまった。




「パパが死んじゃったの。ママ元気ないの。だからお花あげるの」

そんな言葉を口にしながら、一生懸命お花を選んでいる。

泣きたい気持ちで爆発しそうになった。

「そっかぁ。お母さんきっと喜ぶねぇ」

笑顔を頑張れなくなってきた。

それから色々話を聞いてみると、つい最近お父さんが亡くなったこと、お母さんが時々泣いているのを見かけること、おばあちゃんに、お母さんがどうしたら元気になるか聞いたら、お花がいいよって教えてもらったことが分かった。

レジの後ろへ駆け込んで、しゃがみこんで急いで涙を拭いて。

パンッパンッと頬っぺたを叩いて気合いを入れなおした。

「どれにしよっか?お母さん何が好きかなぁ?」

「これがいい」

指の先にはチューリップ。

鮮やかな明るいオレンジ色。

「うん、チューリップかわいいね。じゃあ、リボンつけるからちょっと待ってて」

女の子は大人しくじっと見ている。

「お母さん早く元気になるといいね」

「うん」

出来上がった花束を大事そうに抱えて、ニッコリ笑ってくれた。

「ありがとう」

「気をつけてね。バイバイ」

と言って手を振った。

元気よく手を振りかえしてくれると思ったら、ぺこりとおじぎをした。

小さな女の子が頭を下げる姿を見て、限界に来た。

どしゃぶりの雨のように涙が溢れて止まらなくなった。

もっと他に言ってあげられることはなかったか、してあげられることはなかったか。

そんな時に限って何にも出てこない。急に思い立って、駆けていく少女を追いかけた。

「ちょっと待って!」

振り返ってきょとんとしている。

「ちょっとだけ待ってて」

店に入ってきたばかりの小さな小さなチューリップの鉢植えを急いでラッピングして、メッセージカードに「はやくげんきになりますように」とひらがなで書いた。

その時初めて名前を聞いた。

「みかより」と書き添えた。

「これも一緒にプレゼントしてあげな。これは親指姫っていう名前のチューリップやねん。かわいいでしょ?」

「うん。ありがとう」

もう一度、さっきより、もっといい顔をしてくれた。

「バイバイ。ありがとうね」

「バイバーイ」

花よりも何よりも輝くように明るい笑顔だった。




後日、お母さんと、おばあちゃんと、みかちゃんが店にやってきた。

わざわざお礼を言いに来て下さったのだ。

ピンクのチューリップで花束を注文して下さった。

「この子はピンクが好きなんです。

私がオレンジ色が好きなものですから、こないだはオレンジを選んでくれたみたいで」

みかちゃんはただニコニコしている。

花束を本当に嬉しそうに抱えながら、お母さんとおばあちゃんを交互に見上げる。

「よかったね」

おばあちゃんが頭をなぜる。
お母さんは優しい顔で見ている。

「うん!」

お母さんはきっと元気になられたことだろう。

小さな小さな、みかちゃんの笑顔は、今も明るく輝いていることだろう。




という話しです
この少女の健気な優しさに、優しい気持ちになれました
  1. 2012/01/29(日) 12:59:54|
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Good-ByeWave

Good-Bye Wave


「出発前の飛行機に手を振るライン整備士の姿に憧れて……」と言って入社してくる整備士は少なくありません。

今でこそ整備士が手を振りながらお客様を見送る光景は当たり前となっていますが、もともとは、一人のANA整備士の「お客様への想い」からであったことをご存じでしょうか。

それはまだB(ボーイング)737型機が飛び始めた(1973年)頃のお話です。

この頃、ライン整備士(飛行機が到着し次に出発する間に必要なチェックをして、飛行機の安全を確認し承認する人)は、飛行機が自走するとすぐに事務所に戻ってしまうことがほとんどでした。

たまに、運行乗務員(パイロット)に「いってらっしゃい」と手を振って見送る人もいたようですが、出発する飛行機に対して手を振っている整備士はいませんでした。

そんなある日のこと。

沖縄空港支店整備課に配属されたK君は、先輩整備士Mさんがいつも出発する飛行機に向かって最後まで手を振っていることに気づきました。

そこで、「Mさんはどうしていつも出発する飛行機に手を振っているんですか?」と聞いたのです。

するとMさんは次のように答えました。

「おう。あれか。あれはな、俺、もともと沖縄の出身なんだよ。だから、お客様がこんな遠い沖縄まで高いお金を出して、青い海と輝く太陽を楽しみに来てくれて、ありがたいなって思うし、真っ黒に日焼けして帰っていく姿を見ると『よかったですね、来たかいがありましたね』って、思ってうれしくなる。反対に、台風や雨の日が続いてしまって、真っ白い肌のまま帰っていくお客様を見ると申し訳なくて、『ぜひもう一度、すばらしい沖縄を見に来てください』って、思う。だから、楽しく過ごしてくださった方はもちろん、ちょっと残念な思いをした方にも、沖縄に行ってよかったねって、楽しい思いでになったねって、思って欲しくて、その気持ちを伝えたくて手を振っているんだ。時々機内のお客様が手を振り返してくえるのが見えると、すごくうれしいんだよな。俺たちが整備した飛行機に乗っているお客様から手を振ってもらえるなんて、幸せなことだと思わないかい?」

Mさんの話に感動したK君は、この時以来、Mさんと同じ気持ちで手を振って見送るようになりました。

その後、このお見送りは沖縄空港支店整備課にとどまらず、どんどん広まっていきました。

そしていつしか「Good-Bye Wave」と呼ばれるようになり、世界中の空港で当たり前の光景となったのです。




実は、この「Good-Bye Wave」、規定やマニュアルには一切定められていません。

よく見てみるとわかりますが、整備士たちの手の振り方はそれぞれ違います。

でも、お客様のことを思う気持ちは、皆同じ。

「この旅を、安全に楽しく過ごしてほしい。いってらっしゃい」

そんな想いを込めて、今日もまた、整備士たちは手を振っているのです。

炎天下の日も、寒い冬の日も、たとえ台風の日であっても、姿勢を正して、手を振り続ける整備士たち。

私たち客室乗務員(CA)も、その姿を窓から見ています。

「私たちが心を込めて整備した飛行機です。どうぞ安心して乗務してください。そして、私たちの分まで、お客様が快適に過ごせるようサービスしてください。私たちの想いは託しましたよ」

そんな、彼らの熱い声がいつも聴こえてきます。

その安心感と励ましに、「今日も頑張ろう」と思うのです。

実は、手を振っているのは整備士だけではありません。

機内の清掃を担当している係員たちが一列になってお見送りをしている空港もあります。

今でこそ日常の何気ない光景なのですが、毎回、手を振る姿に胸が熱くなります。

「ありがとうございます。行ってまいります。私たちにお任せください」

手を振り返しながら、しっかりバトンを受け取り、私たち乗務員は飛び立ちます。

規定やマニュアルにも書かれていない、一人の整備士が始めた何気ない行動が、多くの人の共感を得て世界中に広がった。

強制的にさせられたわけではなく、それぞれがそれぞれの意思でその列に加わっていった。

とてつもなく偉大なことだと思います。

でもそれは、皆が同じ想いをもっているからこそ。

だからこそ、つながっていったのでしょう。
ANAでは「気づき」を大切にしています。

自分え気づき、考え、動く。

それが、また新しい気づきをつくるのです。




以前紹介した『空の上で本当にあった心温まる物語』からの話しです

普段何気なく見ていた、バイバイみたいな動作に、いろんな「想い」が込められて「Good-Bye Wave」として世界に広まって行ったなんて感動です

文字通り、ココロ温まる話しです
  1. 2012/01/27(金) 11:32:57|
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カーテン越しのバースデー


娘と妻と三人で福岡に帰る日。
 
小学校4年生の娘は心臓病を患っており、ベッドに寝たまま搭乗することになりました。
 
今回、東京で手術をしていただいたのですが経過は順調とはいかず、この日は完治しないまま福岡に戻ることになったのです。
 
不安と緊張から顔がこわばった私たちを、たくさんのキャビンアテンダントさんが「こんにちは」「ご搭乗ありがとうございます」「大丈夫ですよ」と声をかけ、温かく迎えてくださり、少しだけ安心することができました。
 
娘はすぐにカーテンで仕切られた客室後方に運ばれストレッチャーからベッドに移され、胸元から足までいくつものベルトで固定されていきます。
 
担当してくださるキャビンアテンダントさんが「どうぞよろしくお願いいたします。何でもお気軽にお声をおかけくださいね。おつらくはないですか?」など、やさしく笑顔で話しかけてくれました。
 
さらに、ご自分の小学校時代の笑い話などをしてくださり、娘の緊張をだいぶ取り除いてくれました。
 
長時間の移動で疲れたのでしょう。
 
飛行機が動き出す頃には娘はスウスウと寝息をたてて眠っていました。
 
上空で、飲み物のサービスが終わったあと先程のキャビンアテンダントさんが声をかけてくださいました。
 
彼女といろいろお話ししているうちに、手術のことや娘が飛行機に乗るのを実は楽しみにしていたこと、今日が娘の10歳の誕生日であることなども思わず話してしまいました。
 
それからしばらくして、娘が目を覚ましました。
 
すると、二人のキャビンアテンダントさんがいらして、なんと「ハッピーバースデートゥーユー」と小声で歌ってくれたのです。
 
それだけではありません。「おめでとうございます」と手作りのキャンディーバスケットとクルーの方々が書いてくださった、励ましのメッセージ入りの絵葉書を持ってきてくださいました。
 
娘は突然の出来事にびっくりしながらも、うれしそうに微笑みました。
 
久し振りに見た娘の笑顔でした。
 
1番を歌い終わってくださった、と思ったらまた、「ハッピーバースデートゥーユー」が始まったのです。
 
それもカーテンの外から ・・・ 。
 
「え・・・どうしたの?」
 
カーテンを少し開けてみると私たちは周りにお座りの女性のお客様方が歌ってくれていたのです、娘のために。その歌声はキャビンに響き渡りました。
 
気づくと男性の声も混じっていました。
 
多くの人の歌声がカーテン越しに聞こえたのです。
 
手術や入院生活の疲れも忘れてしまえるような、素敵な歌声でした。
 
娘の誕生日をこんな多くの人にお祝いしてもらったことは、これまでありませんでした。
 
胸がいっぱいになり、涙があふれ出てしまいました。
 
娘の目にも涙があふれていました。
 
カーテンで仕切られ、ベッドに寝ている娘の姿は見えないのに・・・。
 
「よかったね。こんなに多くの人にお祝いしてもらって、幸せだね」
 
「うん。こんなにたくさんの人にお祝いしてもらったのは初めて」
 
カーテン越しに聞こえた皆さんの歌を聴き「私に?」と尋ねた娘の顔は今でも忘れません。
 
これからも前途多難ですが、家族三人、力を合わせて生きていきます。
 
 
 
 
という元ANAでCAだった三枝理枝子さん『空の上で本当にあった心温まる物語』の話しの一節です
 
他にも素敵な話しがあるので、よかったら見てください
 
  1. 2012/01/23(月) 06:55:33|
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生まれてきてくれてありがとう

私は母親です

出産後まもなく子どもが小児がんだとわかり、入院生活が始まりました

小児がんの中でも難しい症例で、1歳の誕生日を迎えることは難しいだろうと言われていました

難しい闘病生活も、何も知らない赤ちゃんってすごいです。

普通に笑ってけろっとしてました。

でも、すごく頑張ったけれど病気は治らず、息子は、たった1年半でこの世を去りました。




息子の最後の1か月は痛みとの闘いでした。

わずか1才の息子にモルヒネをのませるなんて・・・

亡くなる直前、腫瘍は全身に転移して昏睡状態になりました。

動けない息子の体を撫で、大丈夫だよ、大好きだよってバカみたいにそればっかり繰り返しました。

アンビューで自発呼吸が戻らなくなった頃、「お母さん、最期に抱っこしますか?」と聞かれました。

頷き息子の体を抱き上げました。

お腹は復水でぱんぱんに膨れ上がり、腫瘍熱で体は40度を超すほど熱く手足は氷のように冷たい、小さな体を抱いた。




よく頑張ったね、私をあなたのお母さんにしてくれてありがとう。

あなたが生まれてきてくれた事は、私の人生で一番幸せだったよ。

大変な事もいっぱいあったけど、ほんとに楽しかった。

助けてあげられなくてごめんね。

偉かったね。

ママの自慢の○○




生まれてからたった1年半。

その殆どが闘病でした。

髪の毛もまゆげもまつげも、つるつるになるほど治療したのに結局治せなかった。

あんなに苦しい思いをさせてごめんね。

私もあなたを産まなければ、あなたがこんなに苦しむ事はなかった。

だけど、勝手でごめんね。

きっと運命だったんだって思うんだ。

あなたに出会わない人生なんて絶対なかった。

私は本当に、本当にあなたの事が大好き。

あなたのママになれて、最高にハッピーです。




火葬の時、あなたの体を担いで逃げようと本気で思ったよ。

人の目ばっかり気にして生きて来たけど、誰に何て言われてもいいって、初めて思った。

だけど、あなたの体を見て、あぁ、もうここには居ないって、すとんと何かがわかったの。

親って、子供が思うよりも未熟で、みっともないくらい勝手だから、子どもの立場から見ると腹が立つことも多いと思う。

無事に生まれてくれればって思ってたのに、五体満足で生まれてしまえば今度はどんどん欲が出てくるんだよね。

だけど、子供を産んだ時、そのこを初めて抱いた時のことを忘れる母親はいないと思う。

子供を置いて出てったとしても。

認知症で記憶をなくしたとしても。

きっと、いつか見た幸せの夢のように、ずっと体に染みついている。

どれだけその命が祝福されて生まれてきたか。

生きていてくれることがどれだけありがたいか。




もし、ここを見てるあなたのお母さんがそのことを伝え忘れているのなら、私が代わりに言わせてもらいます。




生まれてきてくれてありがとうね。

私をあなたのお母さんにしてくれてありがとう。

かわいくてかわいくて仕方なかった。

あなたが笑ってくれたらそれだけで疲れなんて飛んでったよ。

生きていてくれてありがとう。

あなたは、私に対して後悔なんてすることないんだよ。

何にも心配しなくて大丈夫。

幸せになる道を選んで生きてください。

あなたの幸せが、なにより私の幸せです




という話しです

幼い我が子を失った母親の気持ちがココロ痛いです

でも、母親は、命をかけて子供を産むから、それだけ愛情があるんだろうね
  1. 2012/01/22(日) 00:42:27|
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母を誇りに笑い一筋

右耳は聞こえなくても・・・




滝川広志さんは、13歳の夏、右耳を激痛が襲った。

耳の奥からは異臭を放つ膿(うみ)があふれ出ていた。

診断結果は「真珠腫性中耳炎」中耳炎を繰り返すうちに組織の一部が真珠のように増殖し、耳の周りの骨を破壊する病気だ。

手術で患部を除去して、足の皮膚を移植して鼓膜の形成手術もしたが、聴力は戻らなかった。

滝川広志さんの右耳は、今もほとんど聞こえない。

周囲に打ち明けると、誰もが「うそでしょう?」と驚く。

難聴のハンディを全く感じさせないからだ。

「広志君、右耳がだめでも左耳がある。何とかなるよ」

そう笑い飛ばした母の強さと優しさに支えられた。




熊本市で生まれた。

幼いころに両親が離婚。

病院の看護助手をしていた母と1歳上の姉の3人家族。

生活は苦しかった。

普段の食事はご飯とおかず1品。

月に1度、80円のラーメンがごちそうだった。

「貧しかったけど、それが普通だと思っていたし、不幸だとも思わなかった」

ただ、子どもなりに家にお金がないことは分かった。

小学生のころから自覚症状があった中耳炎を放置したのも、母にお金のことで心配をかけたくなかったからだ。

右耳の手術後、新聞配達を始めた。

母を助けることができるし、欲しいものを買うこともできる。

初めは夕刊を配り、やがて朝3時に家を出て朝刊も配った。

幼いころから中古の白黒テレビが姉弟の宝物だった。

声が筒抜けの2軒長屋。

音量を絞り、テレビにかじりついた。

「サインはV」「柔道一直線」「8時だョ!全員集合」・・・。

歌番組では振り付きで歌手をまねし、姉と批評し合った。

ドラマでは動きに合わせて勝手にせりふを重ねる「当てレコ」に興じた。

はまったときは2人で笑い転げた。

そんなテレビ遊びから生まれた「ものまね」が、目立たない存在だった姉弟を変えた。




中学校の教室。

人前でものまねをする快感を知った。

姉がまず人気者になり、広志さんも続いた。

「滝ちゃん、よか」「よかばい」

教室で、近所のスナックで喝采を浴びた。

歌を覚えるにも、不自由さは感じなかった。

右耳が聞こえない分、左耳に意識を集中し、目で観察した。

「難聴がものまねには良かったのかもしれないですね」

母譲りの楽天的な性格が、その後の人生も切り開いてゆく。

広志さんは今年、芸能生活
30周年を迎えた。




芸名は「コロッケ」。

3月には「長年の夢だった」という博多座(福岡市)の舞台に立つ。

人情喜劇とものまね歌謡ショーの1カ月座長公演。

「あきらめなかったからここまで来れた。

ようやく九州出身の芸人として故郷に認めてもらったような気がします」

滝川家の家訓は「あおいくま」

焦るな、おこるな、威張るな、腐るな、負けるな、の頭文字だ。

幼いころ母が部屋に張り出した教えを胸に、謙虚に芸を磨く。
  1. 2012/01/19(木) 00:00:34|
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美しき空席

それは、月の美しい土曜日の夜でした。
 
まだ、日本と言う国が旅行の自由化を始めて五,六年しか経っていない昭和四十五年頃の渡航先でのお話です。
 
 
 
 
私は、現地の日系人とドライブに出て、眼下に海を見下ろす瀟洒なレストランで夕食をとりました。
 
そこに入ってすぐ目に付いたのは、花をいっぱい飾って、二本の特別に大きなローソクを点した窓辺のテーブルでした。
 
言うまでもなく予約席です。
 
私たちは、その近くに案内されたが、どんな人たちがこのテーブルに着くかしら、そして、今宵、何を祝おうとしてるのかしらと、非常に興味をそそられました。
 
花は、純白の百合や菊、カーネーションといったものばかり、ローソクは、二時間たっぷり持つもので、窓から吹き上げる潮風にも消える気配の無い大きさでした。
 
私たちは、ゆっくり食事をとりましたが、とうとう最後のデザートになっても、予約席には、誰も現れません。
 
ローソクは、すっかり短くなりました。
 
それでもたいして気にも留めていなかったのですが、気が付くと、マネージャーと給仕長はそこを通りかかるたびに立ち止まって情のこもった眼差しで、そこだけポツンと空いているテーブルをじっと見つめているのです。
 
それがいかにも優しくて、それでいて妙にもの哀しそうなので、私はマネージャーに聞かずには、いられませんでした。
 
すると、哀しいいわれがあったのです。
 
 
 
 
ちょうど五年前の今夜でした。
 
結婚式を挙げた若夫婦が、このテーブルでお祝いの食事をなさいました。
 
ローガンさんと言う舟の乗組員のご夫婦で、やはり今夜のように花を飾りローソクを立てましてね、とても幸福そうでしたから私どももはっきり記憶しているのです。
 
次の年の記念日にも、やはり二人でみえたのですよ。
 
そして同じテーブルで食事をなさったのですが、三年目には五ドルの為替と電報が来たのです。
 
奥さんは乳ガンで亡くなられ、自分は航海中で来られない、しかし、あのテーブルは自分たちの為に予約しておいてくれないか、と言う文面でした。
 
あの清らかな美しい奥さんが・・・
 
と、私どもは、びっくりしてご希望どうりしたのですが、それから毎年きまって、為替と電報が来るのです。
 
去年は横浜、今年は、ロンドンからまいりました。
 
きっと今ごろローガンさんは遠くの空で亡くなった奥さんの事を思っておいででしょうね。
 
 
 
 
そう話すマネージャーの話を聞きながら、何と素晴らしい話しなのだろう。
 
私は深く心をたれました。
 
それと同時にマネージャーの心遣いを嬉しく思いました。
 
卓上に飾られた花代だけでも五ドル以上のものでしたから・・・
 
もっと話を聞いているうちに、この五ドルの為替がそっくりローガンさんの奥さんが眠っている教会に年々寄付されている事を知って私も同席の日系人も、人の心の美しさに益々、感動してしまいました。
花を飾った中で大きなローソクの炎が、かっての日の優しい愛情に結びついていく美談は、まるで現実を超越した一遍の詩を誘うような美しい話ではないでしょうか。 
 
  1. 2012/01/15(日) 15:04:23|
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涙のロッカールーム



第90回全国高校サッカー選手権大会、いわゆる高校サッカーは、全国の予選を勝ち抜きいた、48校(東京は二校)の選手により熱戦が繰り広げられ、2012年1月9日、4,174校の頂点に千葉県代表の市立船橋の優勝で幕が閉じました。


一方で、それは三年間、共に過ごしてきた仲間や恩師との別れの瞬間でもある。




「仲間がいたからこんな幸せな思いができる。悔しいけどこの悔しささえも味わえない仲間がいっぱいいるんじゃないか全国に。そうだろ?必ず自分に幸せをもたらせてくれるのは人だ。いつもそう思って、それをお前たちに伝える。人をね、大切にして今までやってきた、この久留米での3年間を、次の人生に活かして欲しい。ありがとう。俺はお前たちとサッカーが出来て幸せだったよ」

齋藤登・東京都立東久留米総合高校サッカー部監督が試合終了後、敗れてロッカールームで泣きじゃくる選手たちに向かって語った言葉が印象的でした。


強豪ひしめく東京で都立高ながら2回目の全国選手権出場を果たした東久留米。

初出場した時は初戦敗退。今年も初戦、先制されながらも多田選手のヘディングシュートで同点に追いつくがPK戦で敗退。初勝利は来年以降に持ち越されました。

この試合のPK戦、愛媛・済美(さいび)高校が5人とも決めた後、東久留米5人目・多田選手がクロスバーに当ててしまい、そこで試合終了。

「本当ごめん」と泣きじゃくる多田選手に、「お前が点入れたからPKまで持ち込めたんじゃないか」、「多田、ありがとう」とこちらも泣きじゃくりながら抱き寄せあう選手たちが印象的でした。




矢板中央は、準々決勝で市船に2-0で敗れた。

「この大会でしっかり結果出して恩返ししようって話したな、恩返しできたよ」と語る高橋監督。

今度は色んな人を支えてあげられる人間になれと選手達を励ましてました。




今大会、もっとも注目を集めたのは尚志。

6-1で準決勝惨敗しましたが、ロッカールームで仲村監督が「お前ら本当に最高だよ、福島に元気を与えたよ。胸を張って帰ろうぜ」と選手たちに声を掛けました。

監督の目からも大粒の涙がこぼれ落ちてました。

新聞の紙面を飾った尚志の快進撃には勇気を与えられた人も多いと思います。




11年ぶりに帰ってきた名将大瀧監督率いる清水商は、定年前の最後の選手権、ベストメンバーで臨めず市船に0-3で敗れ大会を後にします。




東海大五・平清孝監督は、病魔に打ち勝ち戻ってきました国立に。

國學院久我山との開幕戦、1-2で敗れてしまいましたが、ロッカールームで、嗚咽を漏らす選手達に語りかける平監督。

「終わりじゃねぇんだ、ここから旅立って行くんだから。大きな選手、大きな人間、良い大人になってくれ」と選手達に言った後、帽子を深く被り涙を見せなかった監督。(白血病だったそうです)

這い上がってきた監督の言葉はズシリと重いものに感じました。




高校サッカー魂、という番組の中の「涙のロッカールーム」というコーナー

去年も今年も泣かされたけど

来年もまた涙無しでは見れないんだろうな
  1. 2012/01/10(火) 12:00:00|
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トムとジェリー

ジェリーが大人になった頃、トムはもうこの世にいませんでした.

トムは自分の命の終わりがすぐ傍まで来ているのを知ったとき,こっそりジェリーの前から姿を消しました.

ジェリーの前で弱って涙もろくなった自分を見せたくなかったのです.

トムはジェリーの心の中ではずっと喧嘩相手として生きつづけたかったのです.




トムがいなくなったのに気づいたときジェリーは悲しみはしませんでしたが,退屈になるなと思いました.

トムとの喧嘩は最高にスリルのあるゲームでしたから.

胸の奥が不思議にチクチクはするのですが,それが何なのか,ジェリーにはよくはわかりませんでした.

トムの願い通り,ジェリーの心の中でトムはいつまでも仲の悪い喧嘩相手でした.




そんなある日ジェリーの前に一匹の猫が現れました.

トムよりのろまで体も小さい猫です.

喧嘩相手のトムがいなくなって寂しかったジェリーは,今度はこの猫を 喧嘩相手にしようと考えました.

そこでジェリーは,穴のあいた三角チーズが仕掛けられたねずみ取りを利用して,その猫に罠をかけることにしました.

いつもトムにしていたように.

ジェリーは物陰に隠れて,ねずみを求めて猫がねずみ取りの近くに来るのを待っていました.

そして思惑通り猫が罠に向かって近づいてきます.

ジェリーはしめしめと思いました.

いつものように,自分がねずみ取りにひっかかるふりをして,逆に猫をねずみ取りにかけてやるんだ.

手か尻尾を挟んだ猫の飛び上がる姿が頭に浮かび愉快です.

でも,その猫はトムではありません.

猫はチーズの近くまで来たとき,ジェリーが出てくるより早く美味しそうなねずみの匂いに気づき,目にもとまらぬ速さで隠れていたジェリーに襲いかかってきました.




ジェリーはいつもトムから逃げていたように逃げましたが,トムよりのろまなはずの猫にすぐに追いつかれてしまい,体をガブリと噛まれました.

ジェリーも噛みつき返しましたが,トムより体が小さいはずの猫は平気です.

血まみれのジェリーは薄れ行く意識の中で,本当は鼠が猫と喧嘩して勝てるわけがないことと,いつもトムはジェリーに「してやられた」ふりをして,わざとジェリーを捕まえないでいたことを,そのとき始めて知ったのです.

トムの大きな優しさと友情に気づいたのです.

そしてトムがいなくなった時の胸の奥のチクチクの正体にも気づきました.

かけがえのない友を無くした悲しみでした.

ジェリーの魂が体を抜けた時,空の上には優しく微笑みジェリーを待っているトムがいました.

「また喧嘩ができるね」

「のぞむところさ,今度こそは捕まえてやるぞ」
  1. 2012/01/08(日) 13:38:02|
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