泣けるまぁちゃんねる

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コトバをこの子にください ~『まさやと歩いた遠い道』

もう駄目かもしれない、と悩むことがある。
 
なぜ、私たちだけが苦しまなければ、と思うこともある。
この先はない、と絶望のどん底に叩き落とされることもある。
けれども、先がないなんて、誰が決めるのだ。
そう思って、前へ、そう、前へ踏み出さなければ、何も始まりはしない。
この話の主人公も同じだった。
 
 
 
 
郡山で生まれた昌也ちゃんは小さな赤ちゃんだった。
 
二千五百グラムしかなかった。
 
でも、母親の法子さんは、小さく産んで大きく育てるということもあると気にしなかった。
 
元気な赤ちゃんだったが、生後一カ月半のころ、昌也ちゃんは、鼻血を出し、便にも血が混じった。
 
医者にみせたら、「風邪でしょう」と言われた。
 
気をつけていたら、それから間もなく、両耳から出血した。
 
溶血性貧血かもしれないと言われた。
 
月一回通院しているうちに病気の心配はなくなった。
 
とても静かに寝ている子だった。
 
すくすくと育った。
 
一歳半の時、昌也ちゃんは保育所に入った。
 
ほかの子がカタコトを言いながら遊び回っているのに、昌也ちゃんだけが違った。
 
上の子に比べても、言葉が遅いような気がした。
 
二歳になっても、昌也ちゃんは変わらなかった。
 
東京の国立病院の診察を受けることにした。
 
言葉が遅いというので精神科の診断を受けたが、異常はなかった。
 
法子さんは耳鼻科に回った。
 
耳も悪いが知能も遅れていると言われた。
 
「そんなことがあるものか」信じられなかった。
 
別の国立病院へ行った。
 
重い難聴の疑いがあった。
 
だが、東北の病院ではどうにもならない、と言われた。
 
帝京大学耳鼻科の門を叩いた。
 
障害者手帳を受けなければならないほどの聴力損失だと診断された。
 
血の気が引いた。
 
倒れそうだった。
 
必死にこらえた。
 
診断した教授の言葉だけが支えだった。
 
「きっと話せる。お母さんの努力次第です。この子の一生があなたにかかっています」
 
その日から、昌也ちゃんと法子さんの東京通いが始まった。
 
週一回、帝京大学の言語治療教室で治療を受けた。
 
上の子の世話もままならなかった。
 
夫が支えた。
 
「昌也はお前にしか育てられないんだ。家のこともやらんでいい。おれらは、我慢するから、昌也をしっかり頼む。大きくなって、昌也が兄ちゃんを頼らんならんようになったら、おれら恥ずかしい。この子に対して顔向けならん、頼む」
 
一家は昌也ちゃんのために、非常体制をとり、法子さんは昌也ちゃんをサラシの紐で背負い、東京へ通った。
 
三歳児でも重い。
 
「この子に言葉をください。言葉をください」
 
胸に必死で繰り返し、法子さんの東京通いが続いた。
 
三カ月がたった。
 
ある日、昌也ちゃんがお祖母ちゃんに饅頭を手渡しながら、言った。
 
「ダジョ」
 
お祖母ちゃんは嬉し泣きに泣いた。
 
「お母さん」を「ダーバン」としか言えなかった昌也ちゃんの言葉が、「タータン」になり、「オカータン」と言えるようになった。
 
法子さんは昌也ちゃんの言葉の成長の記録を克明に記し、訓練を続けた。
 
昌也ちゃんは、「パパ、オカエリ」「オカータン、オカエリ」とあいさつが出来るようになり、やがて幼稚園から小学校、中学校と進み、中学校では生徒会の副会長に選ばれた。
 
自立出来るようになった昌也君を見て、法子さんは思った。
 
「もう一回子どもを産むんだったら、またこの子でよい」
 
親子で道を踏み分け進んで来た法子さんの道程は『まさやと歩いた遠い道』という本にまとめられ、福島の九クラブが合同事業として支援した。
 
この本は、その後、難聴児を抱える全国の母親のバイブルとなって読み継がれていった。
 
 
 
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  1. 2012/02/28(火) 03:00:17|
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日本一のパパ

木村(仮名)さんは、3店舗のラーメン店の経営をしていました。

もともと厨房で下働きをしていた木村さんにとって、自分の店を持つことは当初からの夢でした。

そして、念願かなって、一店舗目をオープンすることができました。

目新しさもあって、一時はそれなりの人気店になり、その勢いで続いて、2店舗目、3店舗目をオープンさせました。

ところがその後、売上はいっこうに伸びず、それどころか次第に客数も減少していきました。

毎日、朝早くから仕込み、昼間は休みなく働き続け、スタッフが帰った後も深夜まで一人で片付け…。

我も忘れて、一生懸命に働いているにもかかわらず、毎月150万前後の赤字を出し続ける状況にまで悪化してしまいました。

駅前でチラシを配ったり、お客様に割引チケットを配ったり、知人の家の壁にポスターを貼ってもらったり、とにかくできることを見つけて、すこしでも売上を伸ばす努力を続けました。

しかし、どんなに努力しても、どんなに働いても、いっこうに店の状況がよくなる気配はありません。

次第に顔からは、笑顔が消え、いつも眉間にしわを寄せていました。

自信を無くし、生気もなくなっていきました。

木村さんが帰宅すると、妻の幸子さんと幼い子どもが寝ています。

その横で静かに着替えていると、目を覚ました幸子さんが、小さな声でいつも言います。

「今日も遅くまで、お疲れ様…」

「…まあな…」

そんなとき、木村さんは何と返事をしていいのかわからず、いつも力のない返事になってしまいます。

“妻に心の内を話したところで、どうにもならない。自分ひとりで解決するしかない”

もちろん、夫の苦しい状況は、妻の幸子さんもうすうす感じてはいたのですが、“お疲れ様”と言う以外、伝える言葉がありませんでした。

幸子さんも、なかなか寝つけない日々を過ごしていたのです。

何もできない歯がゆさに苦しみながら。




そんなある日…

木村さんが、いつものように明け方になって家に帰ると、寝ている幸子さんの横で、子どもが起きていました。

何気なく、そっと抱き上げました。

そして、あやそうとすると、やっと片言で話しはじめたばかりの子どもが、自分に何かを伝えようとしています。

「…ぱぱ」

何を言っているのか、はじめはよくわかりませんでした。

「ん?」

「…んち、ぱぱ」

それでも、子どもは同じ言葉を何度も言っているようです。

「な~に?…」

「…いちんちの…ぱぱ」

こちらの顔をじっと見て、必死に何かを伝えようとしています。

「何の、ぱぱ?」

そして、とうとう、子どもの言葉をはっきりと聞き取ることができました。




「にほんいちのぱぱ」

「!」




思わず、木村さんの目に涙があふれ、頬を伝って流れていきました。

「……………」

子どもを抱きながら、ただ泣きました。

それまで、必死に耐えていた心のたがが外れように、あふれてくる悔しさを我慢することができなくなりました。




“悔しい…なんと、自分は情けない人間なんだろう。
子どもの言葉に素直に、「そうだよ」と、うなずけない自分が…本当に悔しい。
日本一どころか、明日食べていけるかどうかもわからない。
この子は、それでも自分のことを、日本一と思っている…”

その日、木村さんは布団の中で目をつむっても涙が止まらす、とうとう一睡もできませんでした。

それから木村さんは一念発起し、よいと思ったことは、次々に行動に移していきました。

“どんな苦労をしてもかまわない、子供が誇りに思うような父親に、絶対なる!”

毎日、毎日、必死に研究を続け、その結果、次々と新しい料理を作ることに成功していきました。




実は、この話の陰には、妻、幸子さんの見えない支援があったのです。

仕事の面では何も手伝うことができない幸子さんは、心の中でいつも彼を励まし続けていました。

帰りの遅い父親がいない家の中で、毎日子どもに語りかけていたのです。

“あなたのパパは、日本一のパパよ”




『仕事が夢と感動であふれる5つの物語』きこ書房




という話しです
とかく独りで悩んだり、苦労を背負いがちだが、でも決して独りではない
まわりに支えてくださる人がいるからこそ頑張れている
そんな事を気がつかせてくれた話しです
  1. 2012/02/15(水) 15:18:38|
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小さな命

「もしもし、こちら○○病院ですが、ネコ、ダメでした」
 
 
 
 
朝早くかかってきた突然の電話。
 
私には、一体何のことか、さっぱりわからなかった。
 
「とにかく、ダメだったと伝えてください。」
 
そう言って電話は切れた。
 
しばらくして起きてきた大学生の息子に尋ねると、前日の夜十一時半頃、車で突然飛び出してきたネコをはねてしまい、病院を探して、ケガをしたネコの手当を頼んで帰宅したのだという。
 
「やるだけのことをしたのだから、ネコも成仏するでしょう。でも、治療費大変でしょう。」と、言うと「オレのしたことだから、おれがちゃんとするよ」と一言。
それ以上、多くを語ろうとしなかった。
 
 
 
 
これでネコのことは終わったと思っていたが、数日後、「ネコのことで・・・・・」と、また電話がかかってきて、すぐに切れてしまった。
 
何かイヤな胸騒ぎがした。
 
夕方、帰宅した息子に話すと、ネコをはねた現場近くにネコをはねて死なせてしまったことと、そのネコに心当たりの人は連絡してほしい旨の貼り紙をしてきたのだと言う。
 
それを聞いて、私は、あらためて息子の優しさを感じたが、「夜中にネコが急に飛び出してきたのでしょう。
 
なにもそこまでしなくても」と、言ってしまったのだった。
 
 息子は、私の言葉に、涙を浮かべ、「飼い主を探すのは当然だろう。お母さんだって、チロ(わが家の飼い犬)がいなくなったら、心配して探すだろう。」と言った。
 
しばらくして、再び電話がかかってきた。
 
ネコの飼い主の小学生からだった。
 
息子は、そこのお宅へ行き、事情を説明し、お詫びしたようだった。
 
その後、息子は何も言わなかったが、死んだネコは動物専用のお寺のお墓に埋葬していた。
 
いつまでも子供だと思っていたが、いつのまにか成長していたのだと、息子の意外な一面を発見したような気がした。
 
 
 
 
ところが、ネコのことはもうすっかり忘れていた数ヶ月後のこと。
 
見知らぬ男の人から電話がかかってきた。
 
電話の主は、息子の貼り紙を見た、ある会社の広報担当の方で、「貼り紙を見て感動し、社内報に掲載したので、それを送りたい。住所を教えてほしい」と、いうことだった。
 
送られてきた社内報の記事には、『小さくても大切な命、路上で見つけた良心』という標題で書かれ、貼り紙と息子が供えた花束を写した写真まで添えられてあった。
 
記事には、『お金持ち日本になり、心を失いつつある日本人の心を嘆く声も聞かれる今日、まだこんな優しい心を持ち、そのまま行き過ぎても追求されることもなかったかも知れない事故に、最善の誠意を尽くし、自分の非を認めて、病院に運んで手当を受けさせ、死んだペットの持ち主を探して、お詫びするために、電話番号とフルネームを署名する勇気と優しさに感動せざるを得ませんでした。』と書かれてあった。
 
 
 
 
私は、この記事を読んで、心から感謝する一方、内心じくじたる思いだった。
 
親である私は、息子に、「何も貼り紙までしなくても」と言って泣かせた。
 
それなのに、その貼り紙を見て、息子の行動に感動し、社内報で取り上げてくださる方がいたとは。
 
年と共に、純粋さを失い、事なかれ主義になっていく自分を反省させられたできごとであった。
 
という内容の記事でした。
 
 
 
 
何もそこまでしなくても、と想いがちだがペットの飼い主からみたら大切な家族
 
その悲しみがわかり、きちんと責任ある行動に感銘をうけました
 
そしてその行動や姿勢がまわりにいい影響をあたえて社会をよくしていく、という模範になる素敵な話しなんで紹介させてもらいました
  1. 2012/02/10(金) 14:16:21|
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『僕を支えた 母の言葉』


今回紹介する話しは『鏡の法則』の野口嘉則さんの話しで、YouTubeで220万回以上ダウンロードされている感動的な話しです




『僕を支えた 母の言葉』

僕が3歳のとき、父が亡くなり、その後は母が女手ひとつで僕を育ててくれた

仕事から帰ってきた母は疲れた顔も見せずに晩ごはんをつくり晩ごはんを食べた後は内職をした

毎晩、遅くまでやっていた

母が頑張ってくれていることはよくわかっていた

だけど僕には不満もいっぱいあった

学校から帰ってきても家には誰もいない

夜は夜で母は遅くまで内職

そんなに働いているのにわが家は裕福じゃなかった

遊園地にも連れて行ってもらえない

ゲームセンターで遊ぶだけの小遣いももらえない

テレビが壊れた時も半年間買ってもらえなかった

僕はいつしか母にきつく当たるようになった

「おい」とか「うるせー」とかなまいきな言葉を吐いた

「ばばあ」と呼んだこともあった

それでも母はこんな僕のために頑張って働いてくれた

そして僕にはいつも優しかった

小学校6年のときはじめて運動会に来てくれた

運動神経の鈍い僕はかけっこでビリだった

悔しかった

家に帰って母はこう言った「かけっこの順番なんて気にしないお前は素晴らしいんだから」

だけど僕の悔しさはちっともおさまらなかった

僕は学校の勉強も苦手だった

成績も最悪、自分でも劣等感を感じていた

だけど母はテストの点や通知表を見るたびに、やっぱりこう言った

「大丈夫、お前は素晴らしいんだから」

僕には何の説得力も感じられなかった

母に食ってかかったこともあった

「何が素晴らしいんだよ!?どうせ俺はダメな人間だよ」

それでも母は自信満々の笑顔で言った

「いつかわかる時が来るよ、お前は素晴らしいんだから」僕は中学2年生になったころから仲間たちとタバコを吸うようになった

万引きもした

他の学校の生徒とケンカもした

母は何度も学校や警察に呼び出された

いつも頭を下げて「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と、あやまっていた

ある日のこと僕は校内でちょっとした事件を起こした

母は仕事を抜けだしいつものようにあやまった

教頭先生が言った「お子さんがこんなに“悪い子”になったのはご家庭にも原因があるのではないでしょうか」

その瞬間、母の表情が変わった
母は明らかに怒った眼で教頭先生をにらみつけ、きっぱりと言った「この子は悪い子ではありません」

その迫力に驚いた教頭先生は言葉を失った

母は続けた「この子のやったことは間違ってます。親の私にも責任があります。ですがこの子は悪い子ではありません」

僕は思いっきりビンタをくらったようなそんな衝撃を受けた

僕はわいてくる涙を抑えるのに必死だった

母はこんな僕のことを本当に素晴らしい人間だと思ってくれてるんだ…

あとで隠れてひとりで泣いた

翌日から僕はタバコをやめた

万引きもやめた

仲間たちからも抜けた

その後中学校を卒業した僕は高校に入ったが肌が合わなくて中退した

そして仕事に就いた

その時も母はこう言ってくれた「大丈夫、お前は素晴らしいんだから」

僕は心に誓った「ここからは僕が頑張ってお母さんに楽をしてもらうぞ」だけどなかなか仕事を覚えられなくてよく怒鳴られた。

「何度おなじこと言わせるんだ!」、「すこしは頭を働かせろ!」、「お前は本当にダメなやつだな!」

怒鳴られるたびに落ち込んだけどそんなとき僕の心には母の声が聞こえてきた

「大丈夫、お前は素晴らしいんだから」

この言葉を何度も噛み締めた

そうすると元気がわいてきた

勇気もわいてきた

「いつかきっと僕自信の素晴らしいさを証明してお母さんに見せたい」そう考えると僕はどこまでも頑張れた

仕事を始めて半年くらい経ったときのことだった仕事を始めて半年くらい経ったときのことだった仕事を終えて帰ろうとしていたら社長がとんできて言った

「お母さんが事故にあわれたそうだ、すぐに病院に行きなさい」

病院に着いたとき母の顔には白い布がかかっていた

僕はわけが分からなくて何度も「おかあさん!」と叫びながらただただ泣き続けた

僕のために身を粉にして働いてくれた母

縫物の内職をしているときの母の丸くなった背中を思い出した

母は何を楽しみにして頑張ってくれたんだろう?

これから親孝行できると思っていたのに 、これから楽させてあげられると思っていたのに

葬式の後で親戚から聞いた

母が実の母ではなかったことを

実母は僕を生んだときに亡くなったらしい

母はそのことをいつか僕に言うつもりだったんだろう

もしそうなったら僕はこう伝えたかった

「血はつながっていたくてもお母さんは僕のお母さんだよ」

あれから月日が流れ僕は35歳になった

今あらためて母にメッセージを送りたい
お母さん
僕とは血がつながっていなかったんだね
そんな僕のためにお母さんは昼も夜も働いてくれたね
そしてお母さんはいつも言ってくれた
「おまえは素晴らしいんだから」って
その言葉がどんなに僕を救ってくれたか
どんなに僕を支えてくれたか
あらから僕なりに成長し今は結婚して子どももいるよ
規模は小さいけど会社の社長になって社員たちと楽しくやっているよ
まだまだ未熟な僕だけど僕なりに成長してきたと思う
その成長した姿をお母さんに見せたかったよ

「おまえは素晴らしい」って言ってくれたお母さん
その言葉は間違っていなかったっていう証拠を見せたかった
そしてそれを見せられないことが残念でならなかった
だけど最近気付いたんだ
お母さんは最初から僕の素晴らしさを見てくれてたんだよね
証拠なんてなくても心の目でちゃんと見てくれてたんだよね
だってお母さんが「お前は素晴らしいんだから」って言うときは全く迷いがなかったから
お母さんの顔は確信に満ちていたから
僕も今社員たちと接していてついついその社員の悪いところばかりに目がいってしまうことがある
ついつい怒鳴ってしまうこともある
だけどお母さんの言葉を思い出して心の目でその社員の素晴らしさを見直すようにしているんだ
そして心を込めて言うようにしている

「君は素晴らしい」って

おかげで社員たちとも良い関係を築け楽しく仕事をしているよ
これもお母さんのおかげです

お母さん

血はつながっていなくても僕の本当のお母さん

ありがとう
  1. 2012/02/04(土) 20:41:25|
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豊かさがあれば、叱り方も違う

今回の話しは、前回紹介した林住職のお説法での話しです
 
 
 
 
ある奥さんが娘さんを見ていて、気がついたことを書いた話です。
 
ある日の夕方、主人が入浴している風呂場に娘のめぐみが入って行き、運動靴を洗おうとしておりました。
 
その靴というのは、その朝おばあちゃんが一生懸命洗ってくれた靴だったのです。
 
でも、おばあちゃんの力が弱くて、きれいになっていなかったんです。
 
それが不満で、娘のめぐみがもう一度、洗いなおしをしようとした。
 
「ばあちゃんが洗ったのなんか、少しも汚れが落ちていない。もう一度洗わないといかん」と言って、プリプリして洗い始めた。
 
そして、その話を聞いていたお母さんは「だったらなぜ、自分の気に入るように洗わないの?人のした事が気に入らないなら、自分でしなさい、あんたが横着なんだ」と言って大きな声で娘を叱ったそうです。
 
ところが風呂場に入っていたお父さんは、全然叱り方が違ったそうです。
 
「めぐみちゃん、せっかくおばあちゃんが、お前を思って洗ってくれたのに、きれいになっていないからと言って、一度もはかないですぐ洗っちゃうのはいかんよ。」
 
「二日でも三日でも履いてからにしなさい。おばあちゃんがどんなに気を悪くするか、お前でもせっかく洗ってくれたものを、一度も履かないで洗われてごらん、どんな気がする?まして年をとったおばあちゃんが、洗ってくれたのだから、ありがとうと言って、二〜三日履いてからにしなさい。そうすれば、おばあちゃんだって気持ちがいいはずだ。」
 
「おばあちゃんに、年をとったから、靴も満足に洗えなくなったと、思わせてはいかん。落胆させてはいけない。めぐみ、おばあちゃんが、あんたの靴を洗ってくれるなんて、よくよくあんたがかわいいからだよ。本当ならあんたが年をとったおばあちゃんの仕事を手伝ってあげるのが、人間の道じゃないかな?それをおばあちゃんが洗ってくれたものが、気に入らないからと言って、洗い直しをするなんて、まるで当てつけみたいなものじゃないかな?人間の行為はありがとうと素直に受け止めるものだよ」とお父さんは言われたそうです。
 
それを聞いた、めぐみちゃんは泣きながらうなづいて、風呂場から出て行ったそうです。
 
 
 
わたくしは、このお父さんも豊かな気持ちを持っておられるから、こういう叱り方ができるんだと思います。
 
お父さんの中に、ゆとりと言うか豊かさがあるから、素晴らしい親子関係を作っていくことが出来るんだと思います。
 
こういう出会いは、我々の日々の生活の中で、あっているんですけど、その出会いを今、大切にすることが、なかなかできなくなっている。
 
人からいい出会いをほしがるばかりで、自分が何をできるかということを本当に考える機会がいま少なくなってきたな、と思います。
 
  1. 2012/02/02(木) 17:14:13|
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