泣けるまぁちゃんねる

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星になったママへ 

「一番きれいな星が、ママだよ」




パパに教えられ、澄んだ夜空を見上げる。

岩手県陸前高田市の保育園児、及川律ちゃん(4)は、東日本大震災で母久美子さん(32)を亡くした。

「ぼくも流されて、ママに会いたいなあ。波になりたい」

小さな手で描いた母の似顔絵。

いっしょに暮らし始めたおばあちゃんは、孫の無邪気な言葉を絵の裏に書き留めた。




市立図書館の職員だった久美子さん。

あの日、大きな揺れの後で隣接する市立体育館に同僚らと避難し、そこで津波にのまれた。

仕事着のエプロン姿のままだった。

律ちゃんと弟の詠(えい)ちゃん(2)は保育園で昼寝をしていた。

旋律の「律」と歌の「詠」。

ピアノ好きだった久美子さんが名前をつけた。

兄弟は保育士に導かれ、靴を履かず上着も着ないで大津波から逃げた。

「靴下だったから途中で足が痛くなって、先生にだっこしてもらったの」と律ちゃん。

市職員の父克政さん(33)も無事だった。

兄弟はいま、近くの母方の祖父母宅に避難している。

久美子さんを思うと、祖母まみ子さん(62)は思わず涙ぐむ。

律ちゃんも泣き顔になるが、すぐ笑顔を見せる。

詠ちゃんは「バアバを守ってあげる」と得意のウルトラマンのポーズを取る。




津波が起きて7日後のことだった。

こたつにいた律ちゃんがボールペンで絵を描いた。

にっこり笑う母の顔。

「ぼくも流されてママに会いたいなあ」

津波の恐ろしさをまだ理解できず、母に会いたい思いを口にする律ちゃん。

切ない気持ちで、まみ子さんは絵の裏にその言葉を書き込んだ。

兄弟の写真や成長の記録をきちょうめんに整理していた久美子さん。

「すべて流されたので、私が代わりにやってあげないと……。いつかこの時のことを孫たちに伝えるためにも、大事にとっておきます」

2人の孫の「作品」を水色の箱にしまっている。




「ママがいるか、確かめるんだ」

律ちゃんは、パパやおばあちゃんと別棟にあるお風呂に行く時、夜空を見上げる。

「真ん中の一番きれいな星がママ。抱っこされて、夜空のキラキラお星になって、一緒に街を見たいな」

ママに会えたら、律ちゃんは伝えたいことがある。

「パパは無事だったよ。ママ、おうちにずっといてちょうだい」
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  1. 2012/03/31(土) 00:11:22|
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早くおうちに帰してあげたい


「おかえり、小晴」




東日本大震災の津波で多くの児童が流された宮城県石巻市立大川小学校から数キロ離れた海で、遺体の 一部が見つかりDNA鑑定の結果、中学校教諭の平塚真一郎さん(45)と妻なおみさん(37)の長女で6年生 だった小晴さん(当時12歳)と22日確認された。




「せめて一部だけでもと思っていたら、本当にそうでした。それでも帰ってきてくれてうれしい」

捜索のため6月に重機の資格を取った、なおみさん。

愛娘が帰ってきた今も重機を操り、なお不明の児童4人の捜索に加わる。

最後の一人が見つかるまで。




遺体が見つかったのは名振(なぶり)湾の漁港付近。

地元漁師が見つけ8月9日、夫婦2人で確認に出向いた。

津波に流され、たどりついたのか。

「へそを見れば分かる」と思っていたが、損傷は激しい。

ただ、重ね着していた下着は見覚えがあった。

震災当日はまだ寒かったからだ。

「小晴が、私たちが分かる形で帰ってきてくれた」と夫婦は確信した。

遺体は翌日に一晩だけ帰宅、11日に火葬に付した。

正式確認に真一郎さんは「ようやく葬儀を出して、みんなの元に送ってやれる」とほっとした様子で話す。

なおみさんは「他の子たちの捜索で、できることを続けます」と力を込めた。




全児童108人のうち、小晴さんを含め70人が亡くなり今も4人が行方不明の同小。

震災直後は冠水し近づ くことさえできなかった。

水が引いてからは周辺で、他の不明児童の保護者らと土を掘り返すなどしてきた。

真一郎さんが仕事に復帰後、なおみさんは6月下旬に教習所に通って重機の資格を取得。

石巻市から借りた重機を他の保護者とともに操縦し、手がかりを求め地面を掘り返した。

小晴さんが帰ってくるまで「ずっと見つからず、取り残されるんじゃないか」と不安だった。

気遣って足を運んでくれた他の保護者への感謝が、なおみさんを突き動かす。

捜索で精いっぱいな保護者に代わり「まだ捜す場所はある」と捜索の継続を訴えている。

  1. 2012/03/30(金) 18:04:34|
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カズ その弐

東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ。
試合結果はサッカー日本代表2―1Jリーグ選抜(TEAM AS ONE)となった。
Jリーグ選抜はキング・カズの魂のゴールだ。
カズのシュートがゴールネットに吸い込まれると、
スタジアムの4万人の観衆、そして日本中が歓喜に沸いた。
カズは唯一J2からの出場であり、
余興の一因であり実力としての選出ではないと揶揄されたりもした。
しかし、カズは実力で結果を残した。
カズの日々のサッカーに注ぐ努力と熱意の結晶であった。
やっぱりキングカズは凄い。
インタビューでサッカー界に残る名言を残した。
「本当にみんなの気持ちが一つになったゴール。サッカー界全員で力を合わせ、東北の皆さんにきっと(思いが)届いたと思う」
そして、試合後には敵味方関係なく握手をかわし健闘をたたえ合った。
カズはチームで勝ち取ったゴールと言わず、
相手や今回選出されなかった選手を含めた
サッカー界全員で力を合わせたゴールと言ったのだ。
まさにキングカズである。
彼の言葉の一つ一つがサッカーの名言となって語り継がれる。



「みんなの気持ちが一つになったゴールだったと思う。サッカー界で力を合わせて、いい形で、チャリティーゲームができた。これが、東北の皆さんにきっと届いたと信じている。まだまだ苦しい大変な日が続くと思うが、みんながついている。日本、世界、みんなでこの危機を乗り越えましょう
  1. 2012/03/29(木) 23:43:08|
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生きるための明るさを



生きるための明るさを

三浦知良・サッカー人として


このたびの大震災の被災者の方々に、心からお見舞いを申し上げます。

被害に遭われた方々にとって、この2週間が、その1分1秒が、どんなものだったかを思うと、おかけする言葉も見つかりません。

生きているとはどういうことなのだろう、サッカーをする意味とは何なのだろう。

そういったことを見つめ直さずにはいられなかった日々のなか、思わず頭をよぎったのは「今のオレ、価値がないよな」ということ。

試合がなくなり、見に来る観客がいなければ、僕の存在意義もない。

プロにとってお客さんがいかに大切か、改めて学んでもいる。

サッカーをやっている場合じゃないよな、と思う。

震災の悲惨な現実を前にすると、サッカーが「なくてもいいもの」にみえる。

医者に食料……、必要なものから優先順位を付けていけば、スポーツは一番に要らなくなりそうだ。

でも、僕はサッカーが娯楽を超えた存在だと信じる。

人間が成長する過程で、勉強と同じくらい大事なものが学べる、「あった方がいいもの」のはずだと。

未曽有の悲劇からまだ日は浅く、被災された方々はいまだにつらい日々を送っている。

余裕などなく、水も食べるものもなく、家が流され、大切な人を失った心の痛みは2週間では癒やされはしない。

そうした人々にサッカーで力を与えられるとは思えない。

むしろ逆だ。

身を削る思いで必死に生きる方々、命をかけて仕事にあたるみなさんから、僕らの方が勇気をもらっているのだから。

サッカー人として何ができるだろう。

サッカーを通じて人々を集め、協力の輪を広げ、「何か力になりたい」という祈りを支援金の形で届け、一日も早い復興の手助けをしたい。

そこに29日の日本代表との慈善試合の意義があると思う。

こんなことを言える立場ではないけれども、いま大事なのは、これから生きていくことだ。

悲しみに打ちのめされるたびに、乗り越えてきたのが僕たち人間の歴史のはずだ。

とても明るく生きていける状況じゃない。

でも、何か明るい材料がなければ生きていけない。

暗さではなく、明るさを。

29日のチャリティーマッチ、Jリーグ選抜の僕らはみなさんに負けぬよう、全力で、必死に、真剣にプレーすることを誓う。

(元日本代表、横浜FC)




こんなKAZUだからこそ、このチャリティマッチにサッカーの神様が素敵なギフトを贈ってくれたんだろう。



そして、もう一つKAZUにまつわる素敵な話しを紹介します




ある新聞社にカズが養護学校の施設に1人で来て、度々障害者の子供たちと会っているとの情報が入ってきた。

通常こういう施設に有名人が来る場合はマスコミに事前に知らされていて、カメラと一緒にパフォーマンスとしてするものなので記者もこの情報には半信半疑であるのと、もしかしたらカズ自身に何かの秘密があるのでは?とスクープの可能性も感じながら情報の養護学校に向かった。

3日ほど張り込んだだろうか、場違いな高級スポーツカーが養護学校に横付けされた、中から出てきたのは。

カズこと三浦知良だった。

記者はかたずをのんでカズが何を目的に来ているのか見守っていた。

もちろん他にマスコミの姿は見当たらない。

やがてジャージに着替えたカズが障害者の子供たちとサッカーボールを持って中庭に出てきた。

子供たちの中には満足に歩けないような重度の障害がある子もいた。

しかしその子供たちの目は真剣そのもので倒れても起き上がっては泥だらけになってボールを追いかけている。

いつしか記者のカメラはカズではなく障害者の子供たちに向けられていた。

やがて時間が過ぎてカズと子供たちは施設の中に入っていった。

着替えを終え施設を出ようとするカズに子供たちは全員で手を振っている。

そしてカズはこう言った「今日もみんなありがとー!」

記者は耳を疑った、なぜならカズの方がお礼を言っていたからだ。

高級スポーツカーに乗り込み施設を出ようとするカズに急いで記者は駆け寄って少し意地悪な口調でこう質問してみた。

「カズさん○×新聞ですけど、こういう施設にきて子供たちとサッカーをしてあげているというのはやはり好感度とか人気取りなんでしょうか?」

突然記者が飛び出してきたので少し驚きながらもカズはこう答えた。

「僕が彼らに何かをしてあげてるって?逆に僕が何かをもらっているようには見えなかったかい?」

そう言い残してカズはスポーツカーを走らせて帰って行った。

記者は職業柄意地悪な質問をした事をすぐに後悔する事になった。

なぜなら自分が撮影したカメラにはカズの姿は殆ど映っておらず、その殆どが泥だらけになりながらも、倒れながらもボールに向かっていく障害者の子供たちの姿だったのだから。
  1. 2012/03/29(木) 21:37:21|
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「はやく逃げてください」

「はやく逃げてください。」




人口1万7000人に最後まで防災無線の場所を離れず、避難を呼び掛けた。

そして、それが彼女の最後の言葉。

自分よりも町民の安全を優先。

まさに自分の命を掛けた最後の避難の呼び掛け。

もうその命は戻ってこない。




この無線を聞いて避難し、助かった人たちも大勢居ると思います。

きっとその人たちの心の中には永遠に残ると思います。




遠藤未希さんが無線で避難を呼び掛け続けた防災対策庁舎。

赤い骨組みだけが残っている


東日本大震災の発生から、明らかになりつつある被害状況は拡大の一途をたどり、死者が1万人単位に及ぶとの見方も出てきた。

難航する救出作業、あふれる避難所、行き届かない食料や物資。

福島第1原発1号機の爆発事故で、新たに約8万人の住民が避難を余儀なくされ、想像を絶する巨大地震に襲われた被災地は、大きな不安や疲労に包まれた夜を迎えた。




「はやく逃げてください」

街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。

多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた女性職員がいた。

「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」

同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。




娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。

地震後も役場別館の防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。

難を逃れた町職員(33)によると、地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。

助かったのは10人。

庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。

その中に未希さんはいなかった。

遠藤さんは「(生き残った職員から)『未希さんが流されるのを見た』という話を聞いた。もうダメだと思う」とつぶやいた。

地震直後、遠藤さんの知人、芳賀タエ子さん(61)は「6メートル強の波があります。早く逃げてください」という未希さんの放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、着の身着のままで車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。

停電で信号が動いておらず、周辺道路は渋滞していた。

高台への道路を上がる時、振り向くと渋滞の列からクラクションが鳴り響き、その背後から津波が家屋などをなぎ倒しながら追いかけてくるのが見えた。

芳賀さんは懸命にアクセルを踏み、数十メートルの高さの高台に逃れた。

車を降りて避難所の階段を上がった。

遠藤さんもたまたま避難していた。

芳賀さんは遠藤さんの手を握って言った。

「娘さんの声がずっと聞こえたよ」
  1. 2012/03/28(水) 17:24:43|
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殉職の父と同じ志を胸に

東日本大震災で、悲劇の殉職も少なくない。

殉職した警察官は20人以上にもなる。

岩手県警大船渡署の高田幹部交番所長高橋俊一警視(60)もその中のひとり。

高橋警視は地震発生後、住民の避難誘導や交通整理をしていた警察官に対して、津波に備えて高台に逃げるように無線で指示。

避難を確認すると、「ここからが俺の仕事だ」と言い残し、交番にとどまって津波にのまれた。

しかも、定年を3月15日に控えていた。




同じ意思「目の前で困っている人を助けたい」は子供に引き継がれる。

職業は新聞記者。

想いは同じ。

岩手県大船渡市の感動秘話・エピソード。




目の前で困っている人を助けたい--。亡父と同じ志を胸に、被災地で歩み始めた新聞記者がいる。

岩手県大船渡市などで発行する地元紙「東海新報」の高橋信(しん)記者(23)。

この仕事を勧めてくれた父俊一さん(60)は県警大船渡署高田幹部交番所長として、住民の避難誘導を続け津波にさらわれた。

入社早々、取材先の同署で知った父の殉職。

だが避難所を回れば不自由な生活を強いられた被災者がいる。

「その声を書くことが今自分にできることです」

生まれも育ちも盛岡市で岩手大に進んだが、祖父母の住む大船渡市が好きだった。

気さくでおおらかな人たちに親しみを感じ、沿岸部の就職先を探していた昨年12月。

「受けてみろ」東海新報だけを挙げたメールが届く。

「正しい日本語が載っている新聞で勉強しろ」が口癖の父の勧めだ。

好きな地域やそこに住む人たちをもっと知りたい、とも思った。

試験を受け内定した。




入社まで1カ月を切ったあの日、父は最後まで交番にとどまり行方不明に。

捜しても手がかりさえなく2週間が過ぎた3月28日、編集局長に「給料は半分か、3分の1かもしれない。それでも、やる気があるなら喜んで迎えたい」と覚悟を問われた。

東海新報も社員や読者、広告主が大きな被害を受けている。

むろん迷いはない。

2日後、避難所で食事作りを手伝う地元婦人会の活躍ぶりを伝える初の記事が載った。

題字を刷新した4月1日付の1面を、がれきの中で真っすぐ前を見つめる5人の子どもたちのカラー写真で飾った。

「暗いことばかりだが復興させなければ」と願いを込めて撮った1枚。

入社式もなく辞令を受けただけだけれど、新人記者が誕生した。

「記事を見たら喜んでくれる」と念じた父の悲報が直後に届く。

記者の基本「署回り」で大船渡署を訪ねた8日昼、副署長に「死亡確認」を告げられた。

「見つかったので良かった。仕事を頑張ります、と伝えたい」

大船渡市の避難所になっている中野公民館。

「必要なものは何ですか」

「生野菜だな。衣服は十分だ」

責任者に尋ね、答えをメモする高橋記者。

何が足りず何が必要なのか、それを報じることが、被災者の助けになると信じて、赤い小型車で被災地を連日走り回る。
  1. 2012/03/27(火) 08:45:38|
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石にしがみついてでも

宮城県の沿岸の都市、とある酒屋が今回の大地震と津波で壊滅的な打撃を受けた。

片づけに忙しい店の若者。

老いた母が見守る。

そこに制服の自衛官が来て、1枚の紙を示した。

「招集令状」である。

若者は元自衛官であり、万が一の時に招集に応じる即応予備自衛官であったのだ。




若者は令状を示す自衛官に直立して、「了解しました」と招集に応じる意思を示した。

横からテレビのリポーターが「家がこんな状態なのに行くんですか」と聞く。

「そのために何年も訓練してきたんです。いま行かなければ、10年、20年と後悔しますから」

そばにいた母が「人のためだから、行きなさい。うちのことは何とかするから」と声をかけた。

テレビニュースでの一コマである。




来年のロンドン五輪代表に決まっている射撃の森ゆかり選手も即応予備自衛官。

主婦である彼女には招集令状は来ていないが、森さんは「訓練を受けてきたので、被災地に行って活動したい」と語っている。





元自衛官で、万が一の際、自衛隊に復帰して現役なみの活動を期待されているのが即応予備自衛官である。

現在約5600人。

その他の元自衛官や一般の人が訓練を受けて、万が一の時に活動するのが予備自衛官で約3万2千人。

いずれも志願である。

今回の震災ではこれまで延べ約1300人の即応予備自衛官が招集された。

彼らは自分の仕事を投げ出して、任務に当たっている。




もちろん、現役の自衛官も大活躍だ。

行方不明の被災者を懸命に捜す自衛隊員。

隊員のひとりに奥さんから携帯メールが入った。

「お父さん、無理しないで」

隊員はすぐに返事を送った。

「いま、無理しなかったら、いつ無理をするんだ」

宮城県で行方不明者の捜索の指揮をとっているある自衛官は「隊員は精神的にも肉体的にも限界を超えている。しかし、ここでわれわれが弱音を吐いたら、だれが行方不明者の捜索を行うのか。石にしがみついてでも最後までやり抜きます」と語った。
  1. 2012/03/26(月) 08:30:06|
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震災でうまれた命

東日本大震災の翌日、宮城県石巻市の民家で、津波から逃れた女性が男の子を産んだ。

女性を励まし、お産を助けたのは、助産師、看護師らをはじめ、近くの小学校に避難していた被災者たちだった。




女性は東京都杉並区の主婦、寺田雪さん(35)。

3月25日の出産予定日に備え、2月中旬、石巻市の実家に里帰りしていた。

3月11日午前の検診で「経過は順調」と告げられ安心したが、その日の午後、大地震が起きた。

姉の中村愛さん(37)と両親の4人で高台に逃げようとしたが、実家の前の道路は水かさが増し、すぐに1階が水没した。

危うく2階に逃げたが、そこでおなかが痛み出した。

破水していた。何度もかけた119番はつながらず、どうすることもできない。

傾き始めた家で布団にくるまり、不安と寒さに震えながら夜を過ごした。

外は雪だった。

市内の助産師、小田嶋清美さん(39)は、長女の予防接種で石巻赤十字病院にいて、地震に遭った。

次男、次女を迎えに学校に行こうとしたが、浸水域が拡大し、警察官に止められた。

石巻署で一晩過ごした翌朝、避難所になった市立山下小にたどり着くと、男性が「医者か看護師さんはいませんか」と呼びかけていた。

事情を聴くと、「産気付いている女性がいる」という。

案内されて保健室に行くと、寺田さんが長椅子に体を横たえていた。

ひざ上まで油が混じった水につかり、実家を出たところで警察車両に救出されたという。




昼過ぎ、陣痛の間隔が短くなり始めた。

小田嶋さんは、暖房がない避難所での出産は危険だと考えた。

当時、山下小周辺は孤立状態。

決断を迫られたとき、分娩(ぶんべん)場所として自宅を提供してもいいという女性が現れた。

小学校裏の高台に家があり、被害を免れた主婦、高城(たかぎ)和佳子さん(43)だった。

この時、避難所では、寺田さんの話を聞いた被災者らが協力して動き始めていた。

居合わせた看護師らが市内の医薬品関連会社に行き、消毒液や脱脂綿、点滴装置などを譲り受け、養護教諭は飲料水を卓上コンロにかけお湯を沸かした。

高城さんも自宅で石油ストーブや布団を用意した。

午後3時、小田嶋さんらに介助されながらやってきた寺田さんは「暖かいおうちだな」と心地よさを感じたという。




停電の街を闇が覆い始めた午後6時12分、元気な男の子が生まれた。

隣室で待機していた高城さんは大きな産声を聞き、思わず泣いた。

「こんなにつらい状況で無事赤ちゃんが生まれたのは奇跡」と思った。

懐中電灯で寺田さんを照らしていた姉の愛さんも泣いた。

小田嶋さんは、高城さんから借りて消毒した裁縫用のはさみと糸でへその緒を処置し、山下小に戻った。

無事に赤ちゃんが生まれたことを報告すると、避難所のみんなが拍手で祝福した。




寺田さんは今、杉並区の自宅にいる。

「お産を手助けしてくれた方は皆被災者で、家族の安否が分からない人もいました。この子に反抗期が来たら、その人たちの助けがあって生まれたことを教えてあげようと思います」と話し、「春介」と名付けた長男を抱き上げた。

自営業の夫好作さん(33)は「困っている人がいたら、助けてあげられるような子になってほしい」と話した。

寺田さん夫婦は5月の連休に石巻に行き、お世話になった人たちにお礼をしたいと考えているそうです。
  1. 2012/03/25(日) 08:24:06|
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「お父さん、ありがとう」

東日本大震災の津波で数百人の行方不明者が出たにもかかわらず、福島原発の事故での避難指示で1カ月以上捜索が実施されなかった福島県浪江町請戸(うけど)地区があります。

津波に遭い、九死に一生を得た男性の耳には、50年近く連れ添った自分への感謝の言葉とともに波間に消えた妻の声が残る。

「一刻も早く見つけてほしい」。

男性は14日に始まった捜索による発見を祈るように待ち続けている。




「真っ黒い波が数十メートルの高さに立ち上がり、一気に倒れてきた」

海岸から数百メートル先に住む無職、熊川勝さん(73)は目前に迫る大波に度肝を抜かれた。

妻洋子さん(73)の手を引いて2階に駆け上がったが水位はみるみる上がり、洋子さんを抱えて顔を出すのがやっとになった。

死を覚悟し「これまで、ありがとな」と呼び掛けると、洋子さんはうなずいて唇を動かした。

「お父さん、ありがとう」

もう一度、熊川さんが「2人で孫3人の名前を呼んで終わりにしよう」と声を掛けた直後に強い衝撃があり、洋子さんが沈んだ。




必死で手をたぐったが、渦巻く波に引き込まれていった。

熊川さんは着ていたジャンパーが偶然浮袋代わりになり、天井と屋根の隙間(すきま)で息ができた。

引き波で家ごと沖に向かって流されかかったが、橋桁に飛び移って助かった。

その間、ずっと洋子さんの名を叫び続けた。




その後、身を寄せた県内の親族宅も原発事故の深刻化でいられなくなり、横浜市の長女(42)の元へ。

だが、原発から約5キロの請戸地区には捜索が入らないままで「原発内で(復旧の)作業している人もいるのに、何で警察も自衛隊も助けに行かねんだ」。

もどかしさが募った。

ようやく、警察の捜索がようやく始まり、熊川さんはすぐ福島に戻った。

洋子さんが最後までつかんでいたジャンパーを着て、日々、遺体安置所や遺留品写真の掲示所を回る。

もし、捜索が打ち切られたら自分で捜しに行くつもりだ。

「女房は『金婚式の時は、日光の紅葉を見たい』と楽しみにしていた。秋には骨つぼ抱いて紅葉見に行ぐんだ」と語っていたそうです
  1. 2012/03/24(土) 08:17:07|
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戻ってきて 希望と覚悟、胸に 早く抱きしめたい

津波は生まれたばかりの子供までも両親から引き離した。




岩手県山田町の会社員、武田俊仙(としのり)さん(32)、幸子さん(28)夫妻の長男龍征(りゅうせい)ちゃん(3カ月)は、今も行方不明のままだ。




「早く見つけて抱きしめてあげたい」。

夫妻は連日、現場や遺体安置所を訪ね歩き、小さなからだを捜している。

「あったよ!」

幸子さんががれきの中から泥だらけのハンディーカメラを拾い上げ俊仙さんに見せた。

震災から4週間目。

久しぶりの笑顔になった。

「画像が残っているといいんだけど」




幸子さんは今でも自らを責める。

「なぜあの時、買い物になんて行ったのか」

1カ月前。

幸子さんは龍征ちゃんと愛犬ショコラを連れて岩手県宮古市田老地区にある俊仙さんの実家を泊まりがけで訪問。

義母愛子さん(62)に龍征ちゃんと犬を預け、昼過ぎに市街地に出掛けた。

津波被害で道路がふさがれ、田老地区に戻れたのは2日後。

がれきと化した実家を前に立ちすくんだ。

「避難しているかも」。

愛子さんとショコラの遺体が見つかり、その期待は消えた。

龍征ちゃんだけは見つからない。




2人は08年に結婚。

龍征ちゃんは待ちに待った第1子だった。
強く育つようにと命名した名前は、数年前から決めてあった。

生後2カ月で「あー」と声を出したこと。

おむつ交換の時、服を自ら脱ぐような仕草をすること。

生まれたばかりの我が子が与えてくれた笑顔は、数え切れない。

あの日以来、田老地区の現場や遺体安置所、近隣の避難所を訪ね歩いている。

よく似た赤ちゃんの遺体があると聞き、100キロ離れた大船渡市近くの安置所にも出向いた。

幸子さんは悪い夢にうなされるようになった。

俊仙さんも、仕事に身が入らない毎日だ。




カメラを見つけたその日の深夜、自宅のパソコンで残っていた映像を再生した。

久しぶりに我が子の声を聞いた。

「うー」

無邪気な表情で手足をバタバタさせている。

延べ約30分の成長の記録。

「この姿で戻ってきてくれれば……」

涙が止まらなかった。

希望は捨てていないが、覚悟もできた。

幸子さんが持ち歩くバッグには、龍征ちゃんの服とおむつが入っている。

「すぐに着せてあげたくて」。

再会できたら、声をかけるつもりだ。

「一人で怖かったね。もう寒くないよ」
  1. 2012/03/23(金) 22:40:46|
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