泣けるまぁちゃんねる

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私を見守る人がいる

バスの乗客は、白い杖を持った美しい若い女性が慎重にステップを昇ってくるのをハラハラしながら見守っていた。

彼女は手探りで座席の位置を確かめながら通路を歩いて、運転手に教えられた空席を見つけた。

座席に腰を下ろすと、ブリーフケースを膝に載せ、杖を脚によせて立てた。




34歳のスーザンが視覚障害者になってから1年になる。

誤診のために視力を失って、彼女は闇と怒りと苛立ちと自己憐憫の世界に突き落とされた。

ひと一倍独立心の強い女性だったのに、残酷な運命のいたずらのせいで、ひとの助けを借りなければならないのが辛かった。

「どうして、こんな目にあわなければならないの?」彼女は怒りに胸をつまらせて嘆いた。

だが、いくら泣いてもわめいても祈っても、辛い現実が変わるはずもないことはわかっていた。

視力は2度と回復しない。



以前は明るかったスーザンの心は、重い鬱の雲に覆われた。

毎日をやり過ごすだけでも、苛立ちや果てしない疲労の連続だった。

彼女は必死の思いで夫のマークにすがった。

マークは空軍の将校で、心からスーザンを愛していた。

視力を失った彼女が絶望の淵に沈み込んだとき、マークはなんとか妻にもういちど力と自信を取り戻させよう、もういちど独立心を回復させてやろうと決意した。




軍人であるマークは、扱いの困難な状況に対処する訓練を充分に受けていたが、その彼でさえ、これはこの上なく厳しい闘いになることを知っていた。

ついに、スーザンは仕事に復帰する決心をした。

だが、どうやって職場に通ったらいいだろう?

以前はバスを使っていたが、ひとりで街に出るなんてもう怖くてできない。

マークが、毎日車で職場まで送って行こうと申し出た。

2人の職場は街の反対側に分かれていたのだが。

はじめ、スーザンは喜んだし、ほんのわずかなことにも大変な思いをしている妻を守ってやりたいというマークの気持ちもこれで満たされた。



ところがしばらくすると、マークはこのままではいけないと気づいた。

そんなことを続けるのはどう考えても無理だったし、負担が大きすぎる。

スーザンはひとりでバスに乗ることを覚えなければいけないんだ、とマークは自分に言い聞かせた。

だが、彼女にそう言うと考えただけで、彼はひるんだ。

それでなくても頼りなく、怒りにさいなまれているのに。

そんなことを言われたら、どうなるだろう?

マークの予想どおり、またバスに乗ると考えただけで、スーザンは震え上がった。

「目が見えないのよ!」彼女は苦々しく答えた。

「どうすれば行く先がわかるの?あなた、もうわたしの面倒を見るのがいやになったんだわ」

こう言われてマークの心は傷ついたが、しかしなすべきことはわかっていた。

彼はスーザンに毎日、朝晩いっしょにバスに乗ってやると約束した。

彼女がひとりで大丈夫と思うまで、どんなに時間がかかっても。




そのとおりになった。

まる2週間、軍服を着て支度を整えたマークは、毎日スーザンの送り迎えをした。

残った感覚、とくに聴覚を働かせて、自分の居場所をつかみ、新しい環境に適応する術をスーザンに教えた。

バスの運転手ともなじみになり、彼女に気を配り、座席をとっておいてもらえるようにした。

そのうちに、スーザンも笑い声をあげるようになった。

バスを下りるときにつまづいたり、書類が詰まったブリーフケースを通路に落としてしまうといった運の悪い日にすら、笑顔が出るようになった。



毎朝、2人はいっしょに出かけ、それからマークはタクシーでオフィスに向かった。

車で送迎するよりももっと費用がかかったが、マークは時間の問題だと知っていた。

スーザンはきっとひとりでバスに乗れるようになる。

彼はスーザンを信じていた。

視力を失う前の、何があっても恐れずに立ち向かって、決してあきらめなかったスーザンを。




ついに、スーザンはひとりでバスに乗ると言いだした。

月曜日になった。

スーザンは出かける前に、夫であり親友でもあるマークの首に両腕をまきつけた。

彼の誠実さと忍耐と愛を思って、スーザンの目に感謝の涙があふれた。

「行ってきます」。

2人は初めて、べつべつに出勤した。




月曜日、火曜日、水曜日、木曜日……。

毎日は無事に過ぎていき、スーザンの気持ちも、かつてなかったほど明るくなった。

やったわ!自分だけで出勤できるんだ。




金曜日の朝、スーザンはいつものようにバスに乗った。

料金を払ってバスを下りようとしたとき、運転手が言った。

「あんたはいいねぇ」

スーザンは、まさか自分に言われたのではないだろうと考えた。

いったい誰が目の見えない女性をうらやむというのだろう。

この1年をやっとの思いで生きてきたというのに。

不思議に思って、彼女は運転手に聞いた。

「どうして、いいねぇなんて言うんですか?」

運転手は答えた。

「だって、あんたみたいに大切にされて、守られていたら、さぞかし気分がいいだろうと思ってさ」

スーザンには運転手の言っていることが全然わからなかったので、もう一度尋ねた。




「どういう意味なの?」

答えが返ってきた。

「ほら、今週ずっと、毎朝ハンサムな軍人が通りの向こうに立って、あんたがバスを下りるのを見守っていたじゃないか。あんたが無事に通りを渡って、オフィスの建物に入っていくのを確かめているんだよ。それから、彼はあんたにキスを投げ、小さく敬礼をして去っていく。あんたはほんとうにラッキーな女性だよ」

幸せの涙がスーザンの頬をつたった。

目には見えなくても、マークの存在がありありと感じられた。

わたしはラッキーだ。

ほんとうにラッキーだわ。

彼は視力よりももっと力強いプレゼントを、見る必要などない、はっきりと信じられるプレゼントをくれたのだった。

闇の世界を明るく照らしてくれる愛というプレゼントを。


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  1. 2012/05/26(土) 12:19:10|
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周りのみんなに優しさを配ってごらん

「夜回り先生」と呼ばれ、青少年の非行や薬物汚染拡大防止に活動を続ける水谷修氏の教育論をご紹介します。


「周りのみんなに優しさを配ってごらん」


水谷修(元高校教諭)


(「死にたい」「手首を切った」、そんな相談に水谷さんはどのように答えているのですか、の質問に)


「水谷です。君が死ぬのは哀しいです」


それだけです。

すると大体

「ごめんね、先生を哀しませて。でも死にます」


と返ってくる。

これでこの子は死にません。


(なぜです?)


意識が外へ向きます。

彼らの意識構造は閉鎖的で内へ向いていますから、それを外に向けさせる。

それだけでとりあえずは助かります。

そして僕は一つのお願いをします。


「周りのみんなに優しさを配ってごらん。何でもいいんだよ。お父さんの靴磨きでもいいし、洗濯物を畳むのでもいい」


「そんなことして何になるの」


「いいから、まずやってごらん」と。

二、三日後には、心ある親なら子どもの変化に気づきます。


「先生、お父さんが靴を磨いていたのを気づいてくれて、ケーキ買ってくれた。ありがとう」

というようなメールや電話がくる。


そこで今度は親と話します。

お母さんに毎晩一緒に寝て、触れ合ってください、とお願いするのです。


日本の小児科医の父と呼ばれた内藤寿七郎先生は、「子どもは三歳までに決まる」と言いました。

三歳までにどれだけ触れ合って、抱っこしたかで人生が決まると。


いま、子どもを全然抱いていないでしょう。

保育園に預けても、数人の先生では子ども全員を十分に抱くことはできない。

車ではチャイルドシートなんかに乗せて、全然抱いていないですよ。

たとえ十代になっても二十代になっても遅くはないから、お母さんに彼らと触れ合って、抱き締めてほしいとお願いするのです。

抱き合えばいいんです。

触れ合えばいいんです。

言葉は要りません。

大人たちは頭を使い過ぎますよ。

子どもたちが待っているのは、考えてもらうことじゃない。

そばにいてくれることです。

それを頭で考えて、言葉でこね繰り回すから、むしろ言葉で子どもたちを傷つけて追い込んでいる。

いま世の中、ハリネズミだらけだ。

教員と生徒も、親と子も、社会全体がそうです。

愛し合って認め合いたいのに、針を出し合う。

例えば、娘が深夜一時頃帰宅した。

親はもう泣きたいくらい心配なんですよ。

玄関のドアが開いた瞬間、本当は、「やっと帰ってきた。心配していたんだぞ」

と言いたいのに、「何やっていたんだ、こんなに遅くまで!?」と言ってしまう。

一方、娘は家に帰ったら、「遅くなってごめんね」と言おうと思っていたのに、親に強く言われたものだから、「うざいんだよ!!」と言ってしまう。

「何だ、その口の利き方は。おまえなんか帰ってくるな!」

「分かったよ、出てけばいいんでしょ!!」……。

素直になればいいんです。

そして、言葉を捨てればいい。


教育に言葉は要らないのです。
  1. 2012/05/16(水) 10:54:16|
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20年目のありがとう

母の日に、素敵な話しを教えていただいたのでぜひ紹介させてください
 
 
 
 
母さんは子どもが生まれた時に20年後にこんな人になって欲しいと思って育てました。
 
 
20年後に
一人で立って歩いていける人、
すべてに感謝できる人、
すべてに幸せと感じて生きている人…です。
 
 
母さん自身は親の愛情をあまり受けないで育ったので(祖父母の愛情は受けています。母はいいお嫁さんでした。母は母で私の真似のできない苦労をしています。)、子どもは絶対に幸せにしたいと思っていました。
 
 
幸せって、これとこれとこれがあったら幸せっていうものではないと思います。
 
なんにもなくても「ありがとう」って思える人は幸せなんじゃないのかな?
 
転んでも立って歩いていける人に育てればいいんじゃないのかなと思いました。
 
 
小さい時は我慢をいっぱいさせたね。
 
強い心を育てるためです。
 
おんぶや抱っこはいっぱいしたよ。
 
愛情を育むためです。
 
小さいころからいっぱい歩かせたね。
 
足腰を鍛えるためです。
 
強い心を育てるためです。
 
絵本をいっぱい読んだね。
 
感受性を育てるためです。
 
手伝いをいっぱいさせたね。
 
働く心を育てるためです。
 
「ありがとう」をいっぱい言わせたね。
 
感謝の心を育てるためです。
 
「…さんのおかげだね」と意識して言ったよ。
 
おかげさまの心を育てるためです。
 
おやつは手作り、おかずは質素だけど、手をぬいたことはなかったね。
 
愛情を伝えるためです。
 
ハレの日とケの日を大切にしてきたね。
 
感動の心を育てるためです。
 
知ってる人でもテレビに出る人でも「この人嫌い」とは言わないように気をつけたよ。
 
子どもは親の言葉「好き=いい、嫌い=ワルイ」と理解するからです。
 
子どもの前では大人の話はしないようにしたよ。
 
守らなければならない“子どもの世界”があるからです。
 
毎年、クリスマスにはサンタさんがプレゼントを届けてくれたね。
 
毎年、担任の先生に内緒にしててねってお願いしたよ。
 
夢をもつ大人になって欲しかったからです。
 
親子劇場やコンサートに連れて行ったね。
 
本物に触れることが大事だからです。
 
人の批判やウワサ、ワルクチはしないように気をつけたよ。
 
言った人も聞いた人も魂がヨゴレるからです。
 
いっぱい、誉めて育てたね。
 
自信を持つようになるためです。
 
お客様をたくさん迎えたね。
 
たくさんの人生観を学ぶためです。
 
子ども同士を比べて育てることはしなかったね。
 
それぞれが素晴らしい人間だからです。
 
 
きりがないけど、そうやって小さいことを大切に大切にしてきました。
 
 
 
 
そうして20年経ったら(実際にはもう少し前から)、3人の子どもが「こんなふうに育ててくれてありがとう」と言ってくれるようになりました。
 
「生まれてきてよかった。生んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。」
 
そんな言葉をたくさんいただきました。
 
「生まれてきてよかった!」
 
そう思える子どもを持つことほど親にとって幸せなことはありません。
 
親はそれだけで十分幸せです。
 
 
 
 
飴を欲しがる子どもに飴を与えて「ありがとう」と言われていては、「20年後のありがとう」はなかったと思います。
 
 
「20年後のありがとう」のためには、親はいっぱいの我慢と努力がいるのです。
 
 
3人の子どもたちも「20年後のありがとう」のための子育てをしてくれると信じています。
 
勇ちゃん、陽ちゃん、俊ちゃんに出会えて父さんも母さんも幸せです。
 
そして、母にも感謝しています。
 
母がいなかったら、母さんの思いもなく、3人の幸せもなかったかもしれません。
 
みんなに心からありがとう。
 
  1. 2012/05/13(日) 19:27:28|
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お母さんありがとう

母の日にちなんで、心温まる話しを紹介します




私が結婚を母に報告した時、ありったけの祝福の言葉を言い終わった母は、私の手を握りまっすぐ目を見つめてこう言った。

「私にとって、澪は本当の娘だからね」

ドキリとした。

母と私の血がつながっていない事は、父が再婚してからの18年間、互いに触れて居なかった。

再婚当初幼かった私にとって『母』の記憶は『今の母』だけで、『義理』という意識は私にはなかった。

けれど、やはり戸籍上私は『養子』で、母にとって私は父と前妻の子なので、母が私のことをどう考えているのか分からなかった。

気になってはいてもそのことを口に出した途端、互いがそれを意識してちぐはぐな関係になってしまいそうで、聞き出す勇気は私にはなかった。

だから、母の突然でまっすぐな言葉に私は驚き、すぐに何かをいう事ができなかったのだ。

母は私の返事を待たずに「今日の晩御飯、張り切らなくちゃだめね」と言い台所に向かった。

私はその後ろ姿を見て、タイミングを逃したことに気が付いた。

そして、「私もだよ、お母さん」すぐそう言えば良かったと後悔した。




結婚当日も、母はいつも通りの母だった。

対する私は、言いそびれた言葉をいつ言うべきかを考えていて、少しよそよそしかった。

式は順調に進み、ボロボロ泣いている父の横にいる、母のスピーチとなった。

母は何かを準備していたらしく、司会者の人にマイクを通さず何かを喋り、マイクを通して「お願いします」と言った。

すると母は喋っていないのに、会場のスピーカーから誰かの声が聞こえた。




「もしもし、お母さん。看護婦さんがテレホンカードでしてくれたの。お母さんに会いたい。お母さんどこ?澪を迎えにきて。澪ね、今日お母さんが来ると思って折り紙をね…」

そこで声はピーっという音に遮られた。

「以上の録音を消去する場合は9を…」と式場に響く中、私の頭の中に昔の記憶が流水のごとくなだれ込んできた。

車にはねられ、軽く頭を縫った小学校2年生の私。

病院に数週間入院することになり、母に会えなくて、夜も怖くて泣いていた私。

看護婦さんに駄々をこねて、病院内の公衆電話から自宅に電話してもらった私。

この電話の後、面会時間ギリギリ頃に母が息を切らして会いに来てくれた。

シーンと静まりかえる式場で、母は、まっすぐ前を見つめながら話し始めた。




「私が夫と結婚を決めたとき、互いの両親から大反対されました。すでに夫には2歳の娘がいたからです」

「それでも私たちは結婚をしました」

「娘が7歳になり、わたしはこのままこの子の母としてやっていける。そう確信し自信をつけた時、油断が生まれてしまいました。私の不注意で娘は事故にあい、入院することになってしまったのです」

あの事故は、母と一緒に居る時に私が勝手に道路に飛び出しただけで、決して母のせいではなかった。

「私は自分を責めました」

「そしてこんな母親失格の私が、娘のそばにいてはいけないと思うようになり、娘の病院に段々足を運ばなくなっていったのです。今思えば、逆の行動をとるべきですよね」

そこで母は少し笑い、目を下におとして続けた。

「そんな時、パートから帰った私を待っていたのは、娘からのこの留守番電話のメッセージでした」

「私は、『もしもし、お母さん』

このセリフを何度もリピートして聞きました。

その言葉は、母として側にいても良い、娘がそう言ってくれているような気がしたのです」




初めて見る母の泣き顔は、ぼやけてはっきりと見えなかった。

「ありがとう、澪」

隣にいる父は、少しポカンとしながらも、泣きながら母を見ていた。

きっと、母がそんな事を考えているなんて知らなかったのだろう。

私も知らなかった。

司会者が私にマイクを渡した。

事故は母が悪いわけじゃないことなど、言いたいことはたくさんあったけれど、泣き声で苦しい私は、言いそびれた一番大事な言葉だけを伝えた。

「私もだよ、お母さん。ありがとう」
  1. 2012/05/13(日) 10:49:07|
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カナダ行きの機内で

南蔵院・林住職の講演からの紹介です


私は、日本航空のサービス担当の講師をしています。

ある時、ベテランの機長さんに「今日は若いパイロットの人たちに話をしに行くんですが、伝えたいことはありますか?」と聞きました。

機長さんは、「我々がどんなに訓練を積んでも、汗と油にまみれて整備をしてくれる整備士の人たちを尊敬し、信頼することができなければ安心して空を飛ぶことはできないんです。整備士の人たち対する感謝の気持ちは絶対に忘れないように伝えて下さい」とおっしゃいました。

15年間、客室乗務員をされてきた方に、「心に残る出会いはありますか?」とお聞きしました。

その方は、涙を浮かべられながらこういうお話をして下さいました。

4年ほど前の成田発バンクーバー(カナダ)行きの機内での話です。

ある中年の男性が、寂しそうな、不安そうな、複雑な顔をして窓の外を見つめていた。

「カナダに大きな仕事があって不安なのだろうか」

「単身赴任で家族と離れ離れになって寂しいのだろうか」と思い、食事のサービスの時に「○○さん、どうぞ」と、名前を呼んでサービスをしようと思い、乗客名簿を広げました。

するとその席は「ミスター&ミセス」になっていたそうです。

「あれ?奥様がいらっしゃるんだ」と思ったけれども、奥様の姿は見えない。

「上昇中でまだシートベルト着用のサインが出ているのに、奥様はトイレに行かれたのかな?」

と思い、自分のシートベルトを解いてその座席のところに行き、「奥様はどこに行かれたんですか?」と聞こうとした瞬間、言葉が出なくなってしまいました。

空いた座席には黒いリボンをした遺影が飾ってあり、その遺影にシートベルトがしてあったんです。

でも、座席のところまで来てしまったので、本当は聞いてはいけないんですけど、「これは奥様ですか?如何されたんですか?」と思わず聞いてしまいました。

するとその男性は、「25周年の銀婚式のお祝いに、家内と2人でカナダ旅行に行く予定でした。ところが脳内出血で1カ月前に亡くなってしまったんです。旅行をやめるつもりだったのですが、子どもたちから『お母さんが待ち望んでいた旅行なんだから、自分たちが一番好きだったお母さんの写真を 大きくして連れていってあげて』と言われたんです」とお話されました。

その客室乗務員は、機内電話で「何かいいアドバイスはないですか?」と機長に聞きました。

機長は、「そこに今、奥様が生きて座っていらっしゃると思ってサービスをしてあげて下さい」と言いました。

その男性に聞くと、「女房は赤ワインが好きだった」と言われるので、そのことを報告すると、「私からのお祝いで、一番いい赤ワインを1本出してあげて下さい」と機長が言われました。

赤ワインを注いだグラスを遺影の前に置き、もう一つをご主人に持たせ、「これは機長からのお祝いのワインです。どうぞ乾杯してお飲み下さい」と言いました。

料理も、ちゃんとレンジで温めて持っていきました。

奥様の遺影に向かって、「これはこういう料理です。これはこういう料理です」と説明しながら出しました。

最後に乗務員みんなで20本ぐらいの花束を作り、「これは、私たち乗務員すべてからの銀婚式のお祝いです」と言って渡しました。

ご主人は、カナダに着くまでずっと泣いておられました。

飛行機から降りていかれる時に、乗務員に向かって、「素晴らしい銀婚式の旅立ちになりました。本当にありがとう」とおっしゃったそうです。

「その姿を、私は今でも忘れることができません」と、彼女は話して下さいました。




「あなたたちは素晴らしい供養をしましたね」と私は言いました。

亡くなった方が生きてそこにいるという気持ちで供養をするというのは、よっぽど心が豊かじゃないとできないし、後で褒めてもらえるだろうとか、これで出世しようという損得が入ったらできません。

「あなたたちはそういう損得で考えなかったからできたんですね」と言いました。

さて、私がお話を始めてから1時間が経ちました。

この1時間、皆さんは座っている椅子に支えられました。

私たちはそういういろんなものに支えられている、ということに気が付くことが大切です。

いろんなものに「ありがとう」が言える自分になって下されば、素晴らしい人生を送っていくことができます。

温かい気持ちを家に持って帰って、それを家族の方々に伝えていただければ、今日の出会いが素晴らしいものになることでしょう。
  1. 2012/05/09(水) 12:58:07|
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おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい

ごめんなさいね
おかあさん

ごめんなさいね
おかあさん

ぼくが生まれて
ごめんなさい

ぼくを背負う
かあさんの
細いうなじに
ぼくはいう

ぼくさえ
生まれなかったら
かあさんの
しらがもなかったろうね

大きくなった
このぼくを
背負って歩く
悲しさも
「かたわな子だね」
とふりかえる
つめたい視線に
泣くことも
ぼくさえ
生まれなかったら

ありがとう
おかあさん

ありがとう
おかあさん

おかあさんが
いるかぎり

ぼくは生きていくのです

脳性マヒを
生きていく
やさしさこそが
大切で
悲しさこそが
美しい
そんな
人の生き方を
教えてくれた
おかあさん
おかあさん
あなたがそこに
いるかぎり

向野幾世著
『おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい』
(原文のまま)




向野幾世さんはかつて、やっちゃん(山田康文君)が通っていた明日香養護学校(奈良県)の担任として、一年生のときから彼を見守っていました。

「当時、奈良で、からだの不自由な人たちが集う施設『たんぽぽの家』を作ろうという運動が、お母さん方やボランティアの皆さんの手で進められていました。

その資金集めのためにフォークコンサートをやろうということになったんです。

障害者の詩をメロディーにのせて伝える『わたぼうしコンサート』です。

やっちゃんは話すことはできませんでしたが、キャーキャーと声をあげ、詩を作りたいという意欲をみせたのです」

向野先生は、そのころ明日香養護学校で、言葉も十分に話せず手足も不自由な子供たちに、言語訓練をしていたそうです。

向野先生があげる言葉と、やっちゃんが表現したいこととが一致すれば、目をぎゅっとつぶってイエスのサイン、違っていれば舌を出してノーのサインを送るという方法で、詩作はすすめられました。

「思い浮かぶありったけの言葉を、『やっちゃん、こうか?こうか?』とあげるんです。

山のような言葉の組み合わせでしたね。

出だしは『ごめんね』も『ごめんなさい』もノー。

『ごめんなさいね』で、やっとイエスなんです。

『ごめんなさいね おかあさん』だけで、一カ月ぐらいかかりました」と、向野先生は振り返る。

やっちゃんのお母さんは、彼の詩を受けて、詩で返しました。

泣けます。


私の息子よ
ゆるしてね
わたしのむすこよ
ゆるしてね
このかあさんを
ゆるしておくれ
お前が
脳性マヒと知ったとき
ああごめんなさいと
泣きました
いっぱいいっぱい
泣きました
いつまでたっても
歩けない
お前を背負って歩くとき
肩にくいこむ重さより
「歩きたかろうね」と
母心
『重くはない?』と聞いている
あなたの心が
せつなくて
わたしの息子よ
ありがとう
ありがとう
息子よ
あなたのすがたを見守って
お母さんは
生きていく
悲しいまでの
がんばりと
人をいたわるほほえみの
その笑顔で
生きている
脳性マヒの
わが息子
そこに
あなたがいるかぎり




「第一回わたぼうしコンサート」は昭和50年4月26日、奈良市内で開かれました。

やっちゃんも車椅子でステージにあがり、向野先生がその詩を朗読しました。

彼の後ろにはお母さんもつきそっていました。

それからニヵ月もたずに、やっちゃんは6月11日に亡くなりました。

15歳の誕生日を迎えた直後だったそうです。

このコンサートは、彼にとって最後の晴れ舞台だったそうです。

向野先生はその後、やっちゃんを中心に、この時代の障害をもつ子供たちの歩んだ道を本にまとめました。




「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」・・・

彼の言葉は胸に突き刺さります。

私達がそう言わせない環境にしていかなければならないと痛感するものです。
  1. 2012/05/06(日) 02:36:46|
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レギュラーになれなかった人たちに

南蔵院の林覚乗和尚の心に響く言葉より…




大阪の窓友新聞に、次のような内容の記事がありました。

大阪の藤井寺に住んでいる原田さんというお母さんの話です。




息子さんは、高校三年生。

阪南大高校の野球部に入り、レギュラーを目指して頑張ってきました。

大阪府予選を目の前にした土曜日、いつもは遅くとも九時までには必ず練習を終えて、汗びっしょりになって帰ってくるのに、十時半を過ぎても戻ってきません。

友だちの家に電話をしてみましたが、レギュラーのその子は八時半すぎに帰ってきたといいます。

思いあまって、今度は警察に連絡してみましたが、「今のところ、事故の連絡は入っていません」と。

そうこうするうちに連絡が入りました。

主人が笑い顔でこう言うのです。

「三年生でレギュラーになれんかった部員だけの引退試合があったんやて。相手は、やっぱりレギュラーになれんかった、よその学校の部員や」

それは、レギュラーにはなれなかったけど、三年間苦しい練習に耐え、補欠にもなれないその子たちの、いわばせめてもの晴れ舞台だったのです。

その引退試合は、負けたものの(補欠の補欠の)12人は焼肉を食べにいこうということになったのでした。

一人前千円の食べ放題の店。

あっという間に時間が経ち、気がついてあわてて家に電話をしたということだったのです。




こんな心にくい演出をしてくれた監督さんも、素晴らしい。




この間、川上哲治さんとゴルフをする機会があって、こう言いました。

「甲子園で勝った方の学校の校歌を歌う必要はないのでは。負けた方の学校の校歌を歌っていけば、決勝戦までに全ての学校の校歌をきくことができるのではないですかね」

負けた方をホームベースに立たせて、勝ったほうはまた試合ができるのだから、ベンチの前で拍手をして送ってやるのが、本当の強さであり、優しさではないかと思うのです。




『自分が好きですか』
西日本新聞社

スポーツの世界では、レギュラーやスターになれない人がほとんだ。

ほんの一握りの人たちだけが、スポットライトを浴び、有名になる。

その陰には、文句も言わず黙々と、その人たちを支えてきてくれた補欠、そして補欠にもなれなかった選手がいる。

しかし、どんなに才能があろうが、一人でずっと練習をすることはできない。

普段は目立たないが、一緒に練習する選手がいるからこその話だ。

会社でも、一般の社会でもこれは同じことだ。

支えてくれる誰からがいるから、今の自分がある。

こんな大事なことを、我々はつい忘れてしまう。

「レギュラーになれなかった人たちにこそ敬意を」、「負けた人にこそ暖かい拍手を」という気持。

そんな、優しい気持と、思いやりが社会にあふれていたら、どんなにか素敵な世の中となることだろう。

本当の強さと、優しさを身につけたい。
  1. 2012/05/05(土) 08:08:12|
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ブータンの農業の父

西岡京治(けいじ・1933~92)その名を知る人はあまりいないかもしれません。

しかし、ブータンでは、「農業の父」とされ、国民のほとんどにその名を知られています。




そもそもブータンという国が日本には知られていない。

人口は100万人ほどの小国で、国民の大半は農業で生計を立てているが、国土の大半は山と谷であるため耕作地は1割程度に過ぎない。

彼は28年にわたって農業技術指導を行い、農産物の生産力を飛躍的に増大させ、若いリーダーの育成に成功した。

ブータンを愛し、ブータンのために生き、ブータンで亡くなった。




1964年、脱穀機すら普及していないヒマラヤの国ブータンに、海外技術協力事業団として新妻・里子さんと二人で赴任。

しかし、外との交流がまったくなかったブータンに、突然見知らぬ外国人がやって来て農業の近代化を説いても、誰も相手にしませんでした。

そこで彼は、自ら小さな実験農場を作り、その成果を見てもらう方法をとることにしました。

実験農場で栽培された野菜を国会議事堂前に展示してみた。

これが大評判となり、訪問客も増えていった。

2年の任期が終えようとするとき、彼は悩んでいた。

ようやくブータンの農業がわかりかけてきた時、ここで帰国しては当初の目的は果たせないし、この2年間も無駄になる。

こんな気持ちで悶々としていると、彼の努力を評価して国王から任期延長の話が飛び込んできた。

さらに国王から広い農業用地を提供するという申し出もあった。

彼は「ブータンに来てこれほど嬉しかったことはなかった」と語っている。




この時作られた農場が、ブータン農業の近代化を担っていくバロ農場である。

1976年から4年間、国王の立案によるシュムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わる。

この県は貧しいブータンの中でも最も極貧地域で、中央から忘れ去られた土地といわれていた。

人々は昔から焼畑農法に頼っていた。

一番困難であったのは、地域の人々を説得することであった。

彼の粘り強い説得が続いた。

西岡の考えは、自分達がやれることは極力自分達の手で行なう、身の丈にあった開発であった。

最小の費用で最大の効果、彼の信念である。

この開発期間に、極貧地域は驚くべき変化を遂げた。

水田は50倍に拡大し、農民の生活は安定し、子ども達が学ぶ学校もできた。




20年以上という異例の長期指導を続ける彼に、帰国を促す目的で派遣された国際協力事業団の調査団は、彼の業績に絶賛した。

日本の国際協力事業の最も成功した例とも言われる。

1980年9月4日、彼の活動を積極的に支援してきた王室から、「ダショー(BESTの意)」の爵位を受けた。

「最高に優れた人」という称号で、ブータンでは最も名誉あることであった。




1992年、3月21日、日本にいる妻・里子さんに一本の国際電話が入った(子どもの教育を考え、彼は単身での生活であった)

「ダジョー・ニシオカが亡くなられました・・」

彼は敗血症にかかり、ブータンの病院で息を引き取った。

59歳でした。

西岡の葬儀は妻と娘の到着を待って、3月26日に行なわれた。

国葬であった。

彼を慕う5千人に及ぶ人々が、ブータン全土から弔問に集まった。

ブータンではこれまで誰も経験したことのない立派で盛大な葬式だったという。

ブータンは国をあげて、西岡に感謝の心を捧げたのである。
  1. 2012/05/01(火) 22:01:27|
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