泣けるまぁちゃんねる

泣けるまぁちゃんねるでは 泣ける話し 感動する話し 素敵な話し 優しい気持ちになれる話し 心温まる話し そんな話しを紹介するブログです

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てんつくマン

有名な『てんつくマン』さんのブログを紹介します

何度読んでも泣けます




博多から今日の兵庫の学校の講演会に向かう新幹線の中からWonderful Afternoon!

昨日は小学校のM先生と一緒にコラボ講演。

めちゃくちゃ泣いた。

いろんな話があったんやけど、Sちゃんの話を書くわね。

Sちゃんは小さい時にお母さんが突然いなくなって、おばあちゃんに育てられるようになった。

そのショックで声を出さなくなってしまってん。

声を出すのはおばあちゃんにだけ。

そんなSちゃんは学校でいじめられた。

するとおばあちゃんが学校に乗り込んできて、「Sをいじめたんは誰や!出てこい」ってSちゃんを守りに来たんやって。

Sちゃんの担任になったM先生は、このままの関係のまま卒業してほしくないと思い、おばあちゃんに相談した。

「みんなにSちゃんの過去のことを伝え、一緒に乗り越えたい」と。

おあばちゃんは「先生を信じる」ってクビを縦に振ってくれた。

M先生は勇気を出してみんなにSちゃんがなんで声が出来なくなったのかなどを伝え、みんなにSちゃんの力になってほしいと伝えた。

すると、子ども達はSちゃんとのコミニュケーションの取り方を考えてくれた。

そして、ノートを作って、Sちゃんに伝えたいことがあったら、そのノートに書いてSちゃんの机の上に置く。

Sちゃんは返事を書いてその人の机に返す。

そんなコミュニケーションが始まった。

ある日、隣のクラスの子がSちゃんをいじめた。

すると、同じクラスの子ども達が隣のクラスに行って

「誰がSちゃんをいじめたんや!誰や出てこい!」っておばあちゃんの役割までしてくれるようになってんて。

そうやってクラスの絆が生まれて来たある朝、M先生が教室に行くと、全員の机の上にSちゃんがノートを置いている姿があった。

そう、クラスの全員とコミュニケーションをとろうとしてるSちゃん。

M先生は嬉しかった。

月日が流れていよいよ卒業式。

一人一人の名前を呼ぶM先生。

元気よく「ハイ」と返事する子どもたち。

ついにSちゃんの番が来た。

M先生がSちゃんの名前を呼ぶとその後、みんなが自分の耳を疑った。

「ハイ」

小さな声でSちゃんが返事をした。

それはみんなが初めて聞くSちゃんの声だった。

みんなのやさしくて嬉しそうな笑顔。

ちょっと照れくさそうなSちゃん。

そして、みんなの拍手!

卒業式が終わるとおばあちゃんが職員室に来て、涙をいっぱいためてM先生の両手を自分のしわくちゃの両手で包みながら何度も何度も

「先生、ありがとう、ありがとう」って言ってくれたんやって。

そして、おばあちゃんはM先生の手の中に何かを残して走りさった。

M先生が手を広げるとそこにはしわくちゃの一万円冊が。

(これは受け取れない)

そう思っておばあちゃんを追いかけた。

おばあちゃんを見つけて「おばあちゃん」って声をかけると、涙をぽろぽろ流しながらおばあちゃんが振り返った。

「これはいかんよ、ごめんね、おばあちゃん受け取れないの」って言うとおばあちゃんは泣きながら

「いっぱい考えた、この気持ちをどうやって伝えたらいいかいっぱい考えた。でもこんなことしか思いつかんかった。これが私の気持ちじゃ受け取ってくれ」って泣かれた。

今はそのくしゃくしゃの一万円冊は額に入れて飾っているんやって。

M先生が言ってた。

「たった一人でいいから誰かが信じてくれる人がいたらその人は変われる」って。

M先生は一生懸命頑張りながら、そして子ども達に助けを求める。

素っ裸になって、子ども達に

「先生、一生懸命頑張ったけど力不足や、だからみんなの力を貸してほしい」ってみんなに頼る。

すると、子ども達は自分で考え始める。

完璧な人などいない。

でも、そんな不完全な一人一人が力を合わせたならば、ひょとしたら完璧以上の力が出るのかもしれない。

一人一人の力は微力であっても、決して無力ではない。

M先生は一度、うつ病になって苦しんでいた。

そんな時にうちの「天国はつくるもの」の映画を観てくれて、小豆島に来てくれ、書き下ろしもした。

あの映画を観なかったら今の自分はここにはいない。

そう言ってくれた時、おいらの過去が癒された。

ほんまに映画を創るのをあきらめんで良かったと強く強く思った2011年11月3日だった。

打ち上げでも何度も泣かされた。

いやぁ、人ってほんまに素晴らしいで。

人間不信なんて言ってる人がいたら講演会やワークショップにおいで。

一瞬にして人間不信という幻は解けるから。

今日は中学校での講演。

今日も大感動な一日となりますように。

福岡でもらった優しい風よ、世界に吹いてくれ~!
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  1. 2012/08/31(金) 12:51:21|
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忘れられない慰問演奏

渕上貴美子さんという、杉並学院中学高等学校の合唱部指揮者の方の話しを紹介します


7年前、小児科の末期がん患者の病棟に 演奏をしに行った時のことです。

学校のある卒業生の方から

「病院にいる子供たちに、あなたたちの天使の歌声を聴かせてあげてもらえないか」

とお話があり、私も「ぜひ」と言って受けさせていただいたんです。

病院には全員ブレザーを着ていったのですが、黒っぽい服では威圧感があるからと、その場で上着を脱がされて、全身に消毒液をかけられました。

寒い時期だったんですが、扉を開けると、物凄く暑くて、狭い部屋だったんです。

目の前には、本当にこの子がもうがんなんだろうか、と思うような赤ちゃんから、放射線で髪の毛がぼさぼさになってしまっている子、頬全体が陥没して顔が半分ない子だとか、もうそれは、見ただけでも体に震えがくるようなひどい状態の子たちがたくさん……。

その子たちの前で、私たちは部屋の隅っこのほうにへばり付くように立ちました。

敷かれたホットカーペットの上には、お母さん方も座っていたり、廊下にはドクターや看護師さんの姿も見えました。

私は壁の一番端に行って、指揮棒を振ったんですが、もう涙が止まらなくて、本当に……。

私の目の前で、お母さんが乳飲み子をギューッと抱えながら、涙をポロポロ零すんですよね。

あぁ、自分の子はこんなに大きくまで育つことができないんだ、とか、いろいろ思われたんじゃないかと思うんですが、看護師さんもドクターも皆泣いていらして、泣いていなかったのは、当のがんの子供たちだけで。

私も我慢しなくちゃ、と思うんですが、もう悲しくて悲しくて、生徒たちも涙をポロポロ零しながら、でも必死に笑顔をつくって、一所懸命歌って。

そしたら歌が終わった後に、髪の毛のない子や顔の陥没した子たちが「お姉ちゃんたち、どうして泣いてるの」って言うんです。看護師さんが 「あなたたちがあんまり一所懸命聴いてくれるから、お姉ちゃんたち感動しちゃったのよ。楽しかった?」 と尋ねました。

するとその中の一人が 「凄く楽しかったぁ。大きくなったらお姉ちゃんと一緒に歌いたい」

って、もう私、本当に胸が張り裂けそうで…。

その時に、心から、あぁ歌は素晴らしいと思いましたし、いま生きていて、自分のできることを一所懸命やることが、どんなに大切なことかを凄く強く感じました。

その帰りの電車の中で、ある生徒が 「先生、あんなに皆を悲しませちゃって、私たちが合唱をしに行ったことは本当によかったんだろうか?」 と言ったんです。

何しろあの場にいた大人たちがあまりにも涙を流していましたから。

その時に私は 「うん、よかったんだよ。たぶん、お母さんも、病院の先生も、看護師さんも、皆悲しくて、もう泣きたくて、泣きたくてね。でも、いま一所懸命生きている子たちの前で泣けないでしょ?それを、あなたたちの歌で感動したふりをしてね、思いっきり泣くことができたからよかったのよ。明日からまた笑顔で頑張っていけると思う」と言ったんです。

すると生徒が「そうか。じゃあ私たちの歌で少しは楽になったのかな?」

と言うから 「そうよ。そして歌を聴いていた子たちが『お姉ちゃんと一緒に歌いたい』と言った。生きよう、って。いや、生きるということは分からないかもしれないし、もしかしたら一か月後には命がない体かもしれないけれど、少しでも希望を持って生きようとしたということは、素晴らしいことだから」

と話して、お互いに感動しながら学校に戻ったことがあるんです。

私は、生きているということは、自分一人がここに存在して、ただ呼吸をしているのではなく、いろいろな人と出会って、怒ったり、笑ったり、悲しんだり、苦しみを分かち合ったりして、相手の心や周りにいる人たちの心を、ちゃんと感じられることではないかと思うんです。

私が慰問演奏に行った時に、「いまを大切に生きなければ」と強く思ったのは、幼くして亡くなってしまう子たちもいるんだから頑張って生きよう、という思いではなくて、あの時、あの部屋の中で、それぞれの人の心がうごめいていたんですね。

無邪気に喜んでいる子供や、日頃泣けない家族の人たち……、そういう、たくさんの思いが満ち溢れている中に入ったから、あぁ、ちゃんと生きていかなくちゃ、神様から与えられたこの命を、大切にしなくちゃいけないと感じたのだと思うんです。

谷川俊太郎さんの詩に
「生きているということ 
いま生きているということ 
泣けるということ 
笑えるということ 
怒れるということ」

という言葉がありますが、本当にそんな思いですね。

そうやって、いろいろな人の思いを感じられることで、人間は生きている価値が生まれてくるものだと思います。

  1. 2012/08/17(金) 19:00:13|
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鳶職の父

公用でM高校へ出かけたある日のことだった。


校長先生が、私達を呼び止められて、

「時間がありましたら、お見せしたいものがありますので、校長室までお越しください」


と言われ、校長室に案内された。


「実はある生徒の作文ですが・・」


とA少年の経歴を話しながら、作文を朗読された。




「僕の父親の職業は鳶職である・・・」という書き出しから始まり、内容はおよそ次の様なことが書かれている。




父親の休日は定まっていなかった。


雨の日以外は日曜日も祭日もなく、お定まりの作業服に汚れた古いオンボロ車を運転して仕事に出かける。


仕事が終わると頭から足の先まで、泥や埃で真っ黒くなって帰り、庭先で衣服を脱ぎ捨てて、褌ひとつになって風呂に飛び込むのが日課である。


僕の友達がいても平気で、そんな父の姿が恥ずかしく、嫌いだった。


小学校の頃、近所の友達は日曜日になると決まって両親に連れられて買い物や、食事に出かけて行き、僕は羨ましく思いながら見送ったものだ。


(みんな立派な父さんがいていいなぁ)と涙が流れたこともあった。


たまの休みは、朝から焼酎を飲みながらテレビの前に座っていた。


母は『掃除の邪魔だからどいてよ』と掃除機で追っ払う。


『そんな邪魔にすんなよ』父は逆らうでもなく焼酎瓶片手にウロウロしている。


『濡れ落ち葉という言葉は、あんたにピッタリね・・この粗大ゴミ!』


『なるほど俺にそっくりかハハハ・・うまいことをいうなハハハ・・』と、父は受け流して怒ろうともせずゲラゲラ笑っている。



小学校の頃から、小遣いをくれるのも母だったし、買い物も母が連れて行ってくれた。


運動会も発表会も父が来たことなど一度もない。


こんな父親などいてもいなくってもかまわないと思ったりした。




ある日、名古屋へ遊びに出かけた。


ふと気づくと高層ビルの建築現場に『○○建設会社』と父親の会社の文字が目に入った。


僕は足を止めてしばらく眺めるともなく見ていて驚いた。




8階の最高層に近いあたりに、命綱を体に縛り、懸命に働いている父親の姿を発見したのです。


僕は金縛りにあったようにその場に立ちすくんでしまった。


(あの飲み助の親父が、あんな危険なところで仕事をしている。

一つ違えば下は地獄だ。

女房や子供に粗大ゴミとか、濡れ落ち葉と馬鹿にされながらも、怒りもせず、ヘラヘラ笑って返すあの父が・・・)




僕は体が震えてきた。



8階で働いている米粒ほどにしか見えない父親の姿が、仁王さんのような巨像に見えてきた」


校長は少し涙声で読み続けた。


「僕はなんという不潔な心で自分の父を見ていたのか。


母は父の仕事振りを見たことがあるのだろうか。


一度でも見ていれば、濡れ落ち葉なんて言えるはずがない。


僕は不覚にも涙がポロポロ頬を伝わった。


体を張って、命をかけて僕らを育ててくれる。


何一つ文句らしいことも言わず、焼酎だけをたのしみに黙々働く父の偉大さ。


どこの誰よりも男らしい父の子供であったことを誇りに思う」


そして彼は最後にこう書き結んでいる。




「一生懸命勉強して、一流の学校に入学し、一流の企業に就職して、

日曜祭日には女房子供を連れて、一流レストランで食事をするのが夢だったが、

今日限りこんな夢は捨てる。

これからは、親父のように、汗と泥にまみれて、自分の腕で、自分の体でぶつかって行ける、

そして黙して語らぬ父親の生き様こそ本当の男の生き方であり、僕も親父の跡を継ぐんだ」と。




読み終わった校長は、
「この学校にこんな素晴らしい生徒がいたことをとても嬉しく思います。

こういう考え方を自分で判断することが教育の根本だと思います。

そして子の親としてつくづく考えさせられました」としみじみ言った。




差し出されたお茶はとっくに冷えていたが、とっても温かくおいしかった。




というある記事に紹介された、ココロに響く素敵な話しです

自分もいつか、子供にこうやって背中で、仕事で尊敬される、そんな父親でありたいです
  1. 2012/08/16(木) 22:20:31|
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九人の乙女


1945年6月に沖縄が戦火にさらされたことは日本人なら誰もが知るところだが、日本国内で戦場になった地として樺太もあることは、あまり認識されていないかもしれない。

その理由は、沖縄と異なり今では日本の領土ではなく、住民たちが散り散りになっており、戦場の跡を自由に訪れるのも叶わないためだろうか。

終戦の日の最期の話しとして、『北のひめゆり』として語り継がれている話しを紹介します




「皆さん、これが最後です。さよなら、さよなら・・・」の悲しい言葉を最後に、昭和20年(1945)8月20日、終戦5日後に、樺太(からふと)真岡(まおか)郵便局で電話交換業務を終えた後、自らの若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられた、高さ1.8m、幅2.4mの登別石で造られた屏風状の碑です。

真岡町(現ホルムスク)は、人口約2万人で樺太西海岸南部に位置し、北海道の各港との定期船も絶えなかった平和な港町でした。日本領である南樺太は、ソ連領である北樺太とは北緯50度線をもってきっちりと一線を画されており、昭和16年(1941)太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入することになりましたが、日ソ中立条約(領土不可侵・中立維持を約束した条約)が締結されていたこともあり、国境での紛争はほとんどありませんでした。

ところが昭和20年(1945)2月に、米・英・ソの首脳によりヤルタ秘密協定が結ばれたこともあり、同年4月ソ連は日本に対して条約を一方的に破棄する旨を通告、対日戦に備えて満州や樺太、朝鮮の国境地区に兵力を集結しました。

ヤルタ秘密協定は『ドイツが降伏し、ヨーロッパにおける戦争が集結したのち、2~3ヶ月後には南樺太をソ連に返還することを条件に、ソ連が日本に対する戦争に参加する』ということを約束したものでした。

そして、昭和20年(1945)8月9日の朝、樺太国境警察がソ連軍の不意の攻撃を受け、40年間にわたる国境の静寂が破られたのです。

ソ連軍による進撃・砲撃は、国境を接する町から次第にその範囲を拡げ戦況は悪化する一方で、樺太兵団は、中央国境を突破するソ連軍を側面から支援する部隊が真岡地区にも上陸するものと判断、この地区の守りを固めようと努力を続けていました。当時、真岡郵便局における電話交換業務は、市内・市外ともすべて女性交換職員による手動交換接続方式でしたが、特に戦時下における電話交換業務は国防用また緊急連絡用として重要な使命を担い日夜繁忙を極めていました。

この非常事態に、老人、子供、女性、病人等を優先して島民の緊急疎開が開始されました。

そして8月16日、真岡郵便局長は上司から「女子職員は全員引き揚げるよう、そのため業務が一時停止しても止むを得ない」との命令を受けました。

ほっと安心すると同時に、皆その知らせを喜んでくれるだろうと思っていた局長でしたが、意外な事に局員からは「全員、疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と告げられました。

局長はソ連軍の進駐後起こるであろう悲惨な状況を話し説得したが応じてもらえなかったといいます。

きっと彼女らは交換業務の重要性を認識し、その責任感・使命感を健気(けなげ)なほど感じていたからこそ、このような覚悟をしたものなのでしょう。

友人や知人が次々と北海道へ向けて避難を始める中で、多くの女子職員が職場に踏みとどまり交換作業に従事していました。

そして、迎えた8月20日の朝6時頃、真岡は身にまといつくような濃霧でした。

霧の中にぼんやりと見える埠頭倉庫のトタン屋根は霧にぬれてにぶく光り、疎開する島民を北海道へ輸送する船や北部から難を逃れてきた漁船等がぎっしりと岸壁についていました。この霧の中をソ連船団は、真岡港に接近しつつありました。

そして船団は湾の中央に進みそれぞれの部隊を上陸させ、船団が反転、退避するとこれを援護するため、上陸部隊の火器が一斉に火を吹き、たちまちにして真岡市街は戦火に包まれました。

臨海地区を手中に収めたソ連軍は、続いて山の手に向かって戦線を拡大し、各所に砲撃による火の手が上がり、黒煙が霧の流れた空を覆い、火の粉が風下一帯に降り注ぎました。

最後の時が迫った恐怖から人々は裏山の芋畑やクマザサの茂る野をはうようにして尾根を越え、ある者は鉄道のレール伝いに逃げまどいました。

真岡郵便局では早朝5時半過ぎ、真岡の北約8kmの幌泊から、「ソ連の軍艦が方向を変え、真岡に向かった」との連絡を受けた電話主事補が、仮眠中の宿直者全員を交換台に着席させ、関係方面への緊急連絡を行うとともに郵便局長にこの旨、電話で報告を行いました。

郵便局は場所的にも戦火に巻き込まれる位置にあり、交換室にも弾丸が飛び込むなど、極めて短時間のうちに危機は身近に迫っていました。

しかし、緊急を告げる電話回線を守り、避難する町民のため、またこれらの状況を各地に連絡するため、最後まで職務を遂行したのです。同じ樺太にある泊居郵便局長は、当日の状況をこう話しています。

「午前6時30分頃、『今、皆で自決します』と知らせてきたので『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』と繰り返し説いたが及ばなかった。

ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと『電話主事補さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん...、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで...。さようなら』という声が聞き取れた。

自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。

誰かが、交換手さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っています。

電話主事補さんの知らせで自らも郵便局にかけつける途中、腕に銃弾を受けてソ連兵に連行されてしまった真岡郵便局長は、数日後ソ連軍の将校の許可で局内に立ち入ることができました。

その時の様子を、同局長は「9人は白っぽい制服にモンペをはいており、服装はみじんも乱れていなかった。

また、交換台には生々しい数発の弾痕があった。

さらに、睡眠薬の空き箱があったことは見苦しくないようにするため、睡眠薬を飲んだあと、青酸カリを飲んだのであろうが、息絶えるまで送話器に向かって呼びかけていたようだ。」と語っています。

彼女達は、ブレストを耳にプラグを手に握りしめ、最後まで他局からの呼び出しに応ずるために交換台にしがみついたまま倒れていました。

遺体の確認に立ち会ったソ連軍将校も、悲惨な室内の状況を目の前にして、胸で十字架をきって黙祷したといわれています。

当日交換業務を行っていた9人の中で最年長だった電話主事補は、殉職の日の前日、北海道に疎開する母を港で見送った時、"いざとなったらこれがあるから大丈夫"と胸をたたいて見せました。

それが青酸カリだと知った母親は、顔色を変えたといいます。

それほど、明るくて物事をはきはき言う人でした。

殉職した9名の交換手達はいずれも10代の後半から20代前半の若い女性達です。

通信確保の任務を果たし、最後の言葉を残して9人の乙女達は、若き青春に訣別して行ったのです。




彼女達の壮烈な最後は詩になり、小説になり、映画にもなって「九人の乙女」の悲しい物語として広く知られ、昭和38年(1963)には稚内公園内に彼女達の霊を慰め、その功績を永久に讃えるために『九人の乙女の碑』が建立されました。

また、貴重な関係資料は、同公園内にある開基百年記念塔(北方記念館)に収められています。
  1. 2012/08/15(水) 23:59:00|
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島唄

宮沢和史さん本人による説明




『島唄』は、本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。

91年冬、沖縄音楽にのめりこんでいたぼくは、沖縄の『ひめゆり平和記念資料館』を初めて訪れた。

そこで『ひめゆり学徒隊』の生き残りのおばあさんに出会い、本土決戦を引き延ばすための『捨て石』とされた激しい沖縄地上戦で大勢の住民が犠牲になった事を知った。

捕虜になる事を恐れた肉親同士が互いに殺し合う。

極限状況の話を聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。

資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟)の中にいるような造りになっている。

このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。

だが、その資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れている。

この対比を曲にしておばあさんに聴いてもらいたいと思った。




歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。

『ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら』という下りだ。

『島唄』はレとラがない沖縄音階で作ったが、この部分は本土で使われている音階に戻した。

2人は本土の犠牲になったのだから。
  1. 2012/08/15(水) 14:21:47|
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日本とパラオ

昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。

日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ飛行場を完成させています。

パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の太平洋防衛圏上の、重要な拠点となったのです。

日本にとって、防衛上重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。

なぜならフィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、パラオ・ペリリュー島の日本軍基地は後背部を脅かす存在だからです。

昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画しました。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。

米軍は、刻一刻と迫ってきます。

島民たちは、白人統治の時代を知っています。

そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。

そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めました。

こうした村人の会議という制度は、パラオ古来の慣習です。

いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します、全員です。

そして話し合いは、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。

議場に籠って話し合い続けるのです。

そうして、みんなの意思を固める。

全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。




当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。

日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。

中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。

家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。

「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。

そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み、一緒に戦うことをきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。

だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。

ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。

そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。

「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。

一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙のあとです。

中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。

耳を疑った。(俺たちのことを「土人」と言った?)

そのときは、ただ茫然としてしまいした。

指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。

断られたからではありません。

土人と呼ばれたことがショックでした。

怒りではありません。

あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。

それが「土人?」

信じていたのに。

それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。

みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。

ただただ悲しくて、悔しくて。

みんな泣いてしまいました。




何日がが経ちました。

いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。

島民たちは、悄然として船に乗り込みます。

島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。




汽笛が鳴りました。

船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。




次の瞬間です。

島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。

島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。

日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。

そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。

船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。

そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。

船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。

誰もが笑っています。

歌声が聞こえます。

そこには中川隊長の姿もありました。

他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。

素敵な笑顔だったそうです。

当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。




昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。

島に立てこもる日本軍10,500名。

対する米軍は、総員48,740人です。

火力に勝る米軍は、その日から、航空機と艦砲射撃によって、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を小さなペリュリュー島に投下しました。

最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払いました。

海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。

そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000人が島に上陸を開始しました。

米軍の上陸用舟艇が、続々とやってくる。

島はじっと沈黙したままです。

米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。

そのときです。

突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲ったのです。

それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。

水際での戦闘は凄惨を極めました。

米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却をしています。

この戦闘で、米軍の血で海岸が赤く染まりました。

いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。




10月30日には米軍第1海兵師団が全滅しました。

米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。

将官が倒れるほど、それほどまでに、すさまじい戦いだったということです。

この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続していました。

けれど、日本軍には、補給が一切ありません。

食料も水もない。

夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って米軍の猛火に遭います。

だから水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。

日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめます。

米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。

11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。

中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。




その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。

そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。

こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。

米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過していました。




戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。

米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。

戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。

彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれました。




戦後、パラオは、米国の信託統治領となります。

けれど、米国は、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。

島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始します。

そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。

そのパラオが米国の信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成6(1994)年のことです。
  1. 2012/08/15(水) 13:00:00|
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英霊たちに捧げる写真

太平洋海底に眠る英霊の慰霊と沈没艦船の撮影を続けて三十余年。

写真店経営で得た利益や本の印税をすべて注ぎ込み、切ったシャッターの数は四万回を超える。

遺族でもない、軍隊経験もないおまえが私財を擲ってなぜそんなことをする、と誰もが訝しがる。

自分自身にもはっきりした答えはない。

ただ、私の活動をテレビなどで知った遺族の方が訪ねてこられたり、弟を亡くされた老人が「とにかく一緒に行ってほしい」と新聞を握り締めたまま飛んでくるのを見れば、どうしても放ってはいられなくなる。

詰まるところそれは「自分が日本人であるから」とでも言えるのかもしれない。

太平洋戦争の激戦地となった海底に、いまだ百万柱以上の遺骨が放置されている現状を知る日本人はほとんどいない。

かつてはこの私もそうだった。

沈没船の存在を知ったのは、昭和四十八年。

ミクロネシアのトラック諸島で仲間とダイビングをしていたところ、海底に傷ついた船体と散乱した遺骨を発見した。

帰国してからもずっとそのことが気にかかり、翌年撮影に行く準備をしていると、噂を聞きつけたテレビ局から番組出演の依頼があった。

当初、私の目的は沈没船の撮影にあったが、共演していた薬師寺管長の高田好胤さんが突然「坪本さんたちが今度、トラック諸島で水中慰霊祭をやる。故人をしのぶ酒や果物、戒名を書いたハガキ、なんでもいいから送ってください。現地で供養してきます」

と茶の間に呼びかけたのである。

番組には、全国から千通にも及ぶハガキと山のような供え物が届けられた。

そして放映当日。

テレビ局には番組が終わらないうちから「よくぞやってくれた」という反響が続々と寄せられ、自宅の電話もまる二日間鳴りっぱなしの状態。

それが一段落すると、今度は手紙やハガキが嵐のように舞い込んだ。

とりわけ印象深かったのが、ある老女から届いた手紙である。

「主人の慰霊にいつか行きたいと思っていたけれど、いままでずっと行けませんでした。きょう番組を見ていて、思わずブラウン管の前で両手を合わせていました」。

最後には、娘さんの言葉がこう添えられてあった。

「母をいつの日か父の終焉の地に連れていってあげたい。それが私に残された唯一の親孝行だと思います」。

私が亡き人々の慰霊と、鎮魂を込めた撮影を生涯の仕事と決めたのはこの時だった。

以来、パラオ諸島やフィリピンなど、七か国の海を百回以上訪れたが、特に衝撃的だったのは、特設巡洋艦「愛国丸」の遺骨収容作業に同行した時のことである。

同艦は米軍の爆撃に遭って轟沈し、船上には千名近くが便乗していたとされる。

私も命がけで水深七十メートルまで潜り、真っ暗な船内を強烈なライトで照らし出すと、あたりは骨、また骨。

何十センチと積もるヘドロに散乱した肋骨や大腿骨、こちらをギロッと睨むような頭蓋骨…。

しかし、怖いという気持ちは不思議となく、私はとにかくこれを国民に知らせたい一心で、一秒でも長くフィルムを回そうと感じていた。

一か月間をかけ、引き揚げた遺骨の数、三百五十体。

甲板で遺骨を洗い流すとヘドロやサビが血のように流れ出て、青々とした海に赤茶けた帯がかかった。

 なお水中慰霊の際には、組み立て式の祭壇を海中に持ち込み、
 供え物をして両手を合わせる。
 同行した遺族は船上から花束を投げたり、
 酒を注いだりして慰霊を行うのだが、愛国丸の時には、父の顔も知らずに育ったという遺児の姿があった。

慰霊が終わると、彼はズボンを下ろし、海パン一丁になったかと思うと、看板の縁に駆け寄って「お父さーん!」と叫びながら海の中に飛び込んでいった。

しばらく周辺を泳いで戻ってきた若者は「親父と同じ海水を飲んできた。これで自分も同じ気持ちになれた」

と言って胸の支えが下りたような顔をしていた。

終戦五十年の年には、パラオ諸島で給油艦「石廊」の水中慰霊を七十歳の方と行い、全国で放映された。

それを見ていたのが当時、七十七歳だったある老人。

彼はその日からずっと日本海で泳ぎの練習を続けたという。

沈没から六十年を迎えた一昨年、八十六歳になっていた彼に、水中慰霊祭をやるから来るかと尋ねたら、即座に「行く」という答えが返ってきた。

二人で現地へ向かい「ここ(船上)から花束を投げるか」と言ったが、彼は「いや、潜ってやらせてくれ。死んでも俺はやる」と言う。

結局水深二十五メートルまで潜り二人で慰霊を行った。

船が沈没した当時、老人は部下二十人を率いる上等機関兵だったという。

自分だけが偶然、機関室を離れていたところへ直撃弾が落ち、そこで部下全員の命を失った。

六十年もの間、部下たちを思い続けてきた老人の気持ちは、一体いかほどのものであっただろう。

戦後六十一年目を迎えた今年。

毎年夏になると行われる慰霊も、メインとなるのは陸上ばかりで、水中慰霊はほとんど話題にも上らない。

戦争の傷跡が姿を消していきつつある現在、太平洋各地にいまも残る艦船は、沈没した当時のまま、英霊の遺骨とともに朽ち果てていく運命にある。

しかし今日の日本を考える時、私はこの平和の礎となってくれた英霊たちの存在を思わずにはいられない。

今年七十歳になる私だが、一人でも多くの方に沈没船と遺骨の存在を知ってもらい、二度とこのような惨劇を繰り返さぬよう、体力の続く限り活動を続けていくつもりだ。

  1. 2012/08/15(水) 00:01:00|
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母への便り

その後元気の事と思ひます。

私達の名前は神風七生隊です。

本日その半ばが沖縄沖の決戦に敵船団に突入しました。

私達の出撃も二、三日中に決まっています。

(中略)

お母さん、私が死んでも淋しがらないで下さい。

名誉の戦死、それも皇国の興廃をかけた戦いに出て征くのですから有難いです。

飛行機で九州に入ってから博多の上は通りませんでしたが、腹一杯歌を唱ってなごりを惜しみましたよ。

もう余り思いのこすことはありません。

(中略)

出撃の服装は飛行帽に日の丸の鉢巻をしめて、純白のマフラーをして、義士の討入りのようです。

お母さんの千人針は右に万人は左に、たおるとも・・・の書いてある国旗も身につけてゆきます。

お母さん達の写真をしっかりと胸にはさんで征こうと思っています。

(中略)

お母さんが見て居られるに違いない。

祈って居られるに違いないのですから、安心して突入しますよ。

お別れには、いなりずしと羊かんがつきますよ。

弁当をもって征くのもなかなかよいですね。

立石さんからもらったかつおぶしもお守りと一緒に持ってゆきましょう。

お母さんのとこにゆくのに一寸海の中をほってゆかねばならないのですから。

(中略)

何だか夢のようです。

明日はいないのですからね。

(中略)


お母さん、ぐちをもうこぼしませんから、お母さんも私についてこぼさないで下さいね。

泣かれたとてかまいませんが、泣いて下さいね。

やっぱりあんまりかなしまないで下さい。

私はよく人に可愛がられましたね。

私のどこがよかったのでしょうか。

こんな私でも少しはとり得があったんだなぁと安心します。

ぐうたらのまま死ぬのは、やはり一寸つらいですからね。

(中略)

私は甘やかされましたね。

今から考えると勿体ないです。

境遇のよかったことは私の誇りです。

この誇りを最後まで保持しようと思います。

私から境遇を引いたら零です。

随分ぐうたらですが、一人前で人の前に出られたのが有難いです。

なにか変な話になりましたが、今日は一寸ねむいです。

又時間があったら書き加えましょう。

もう余りなごり惜しまなくてもよいですね。

ここらでお別れ致しましょう。

なごりはつきませんね。

お別れ致しましょう。

市造は一足先に天国に参ります。

天国に入れてもらえますかしら、お母さん祈って下さい。

お母さんが来られるところへ行かなくてはたまらないですから。

お母さん さようなら
  1. 2012/08/14(火) 04:05:55|
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特攻隊員の手紙

知覧特攻平和会館には、数多くの遺書や手紙が残されています。




特攻隊の教官だった年配者の一人は、教え子が続々と出撃していく中で「必ずオレも後に続く!」と約束を繰り返していました。

しかし、重要な職務を持ち妻と子二人の家族を持つ隊長には出撃命令は出されませんでした。

何度嘆願書を出してもだめです。

逆に妻は夫に死なないで欲しいと何度も説得を繰り返しました。

しかし、夫の決意があまりにも固いことを悟った妻は、「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」と遺書を残し、3才と1才の女の子を連れて入水自殺してしまいました。

引き上げられた妻子の遺体のそばで号泣した教官は再度血書嘆願を出しやっと出撃を認められたのです。

教官の遺書には「母とともに消え去った幼い命がいとおしい まもなく会いにいくからね お父さんの膝でだっこして寝んねしようね それまで泣かずにまっていてください」と書かれていました。






特攻隊員の妹さんへの遺書


「なつかしい静(しい)ちゃん! お別れの時が来ました。
兄ちゃんは、いよいよ出撃をします。
この手紙が届くころには、沖縄の海に散っています。
思いがけない父、母の死で、幼い静ちゃんを一人のこしていくのは、とても悲しいですが許して下さい。
兄ちゃんの形見として静ちゃんの名で預けてある郵便通帳とハンコ、これは静ちゃんが 女学校に上がる時に使って下さい。
時計と軍刀も送ります。
これも木下のおじさんに頼んで、売ってお金に換えなさい。
兄ちゃんの形見などより、これからの静ちゃんの人生の方が大事なのです。
もうプロペラが回ってます。
さあ、出撃です。
では兄ちゃんは征きます。
泣くなよ静ちゃん。
がんばれ!」






遺書を託された兵からの手紙

大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます

わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です

伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました

そのとき、このお手紙を わたしにあづけて行かれました

おとどけいたします

伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へん だいじにしてをられました

いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました

ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や 落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました

飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました

伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう

同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます

苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる

伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう

けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました

静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください

さやうなら





「母を慕いて」

母上様御元気ですか

永い間本当に有難うございました

我六歳の時より育て下されし母

継母とは言へ世の此の種の母にある如き不祥事は一度たりとてなく慈しみ育て下されし母

有難い母

尊い母

俺は幸福だった

ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺

幾度か思い切って呼ばんとしたが何と意志薄弱な俺だったらう

母上お許し下さい

さぞ淋しかったでせう

今こそ大聲で呼ばして頂きます

お母さん

お母さん

お母さんと
  1. 2012/08/13(月) 03:51:11|
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月光の夏


太平洋戦争末期の話しです
 
佐賀県鳥栖市の小学校へ二人の若い特攻隊員が走ってきました。
 
「自分たちはピアニストを目指していた芸大の学生だったのですが、今は特攻隊の隊員として明日出撃しなければなりません。死ぬ前にどうしてもピアノを弾きたくて、でもどこもオルガンしかなくてこの国民学校に唯一ピアノがあると聞き、基地からここまで走ってきたのです。どうかピアノを貸してくださいませんか?」
 
それを聞いた音楽担当の女性の先生は1冊の楽譜を持ってきました。

ベートーベンの月光ソナタです。この小学校にはドイツ製のフッペルという素晴らしいグランドピアノがありました。先生は空襲のたびにバケツを持ってこのピアノを守っていました。
 
隊員は楽譜をピアノに置くと、1楽章2楽章と弾きつづけました。そして第3楽章が終わったとき、生徒たちから拍手が起こりました。
 
生徒の一人が声をかけました。子供たちにとって絹の白いマフラーをした特攻隊の隊員は憧れだったのです。
 
「僕たちもあとに続きます!」しかし、特攻隊のお兄さんはこう答えました。


 「君たちは行かなくていい。君たちが死ななくてもいいように、お兄さんたちが死んでいくんだよ。君たちは戦争が終わったらこの日本を立て直すんだ。いいね」
 
そうして翌日、飛び立って行ったのです。
 
 
 
 
ドイツの、今はもう無い「フッペル(HUPFER)」というメーカーのピアノで、このメーカーのピアノは日本に2台しかないとのことです。
 
ちなみにもう1台は、偶然同じピアノを使われていた高知の声楽家の方から寄贈されたもので、鹿児島県の知覧町にある「特攻平和会館」に展示されているそうです。
 
 
このピアノを作った「フッペル」というメーカーは、ナチスドイツによって取り壊されてしまったが、「スタインウェイ」は、アメリカ資本だったことが幸いして、アメリカによるドイツ爆撃対象から外れ、工場が焼けずに残ったために、戦後、戦災を被ったドイツの他のピアノメーカーに先んじて、世界中の音楽ホールを一挙に制することが出来たという歴史的経緯があるそうです。
鹿児島の南に知覧という町があります。
 
その特攻基地から飛び立つ戦闘機に近くの女学生が桜の枝を戦闘機に差して見送りします。飛行機が飛び立つと空から桜の花がヒラヒラと落ちてくるのです。そうして羽を3度左右に振ります。これが「祖国よさらば」の合図です。ちょうど富士山とそっくりな形の開門岳が祖国日本の最後の姿なのです。それに別れを告げて、6000人もの若者が沖縄の海に散っていきました。
  1. 2012/08/12(日) 12:35:07|
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