泣けるまぁちゃんねる

泣けるまぁちゃんねるでは 泣ける話し 感動する話し 素敵な話し 優しい気持ちになれる話し 心温まる話し そんな話しを紹介するブログです

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

バスジャック事件が教えたもの

以前世間を騒がせた17歳の少年によるバスジャック事件。

そのバスに同乗していた山口さんという方は、加害者の少年によって刺し傷を負われました。

しかし山口さんは、この事件を教訓に子供たちが加害者にならないための活動をはじめました。

その話しを紹介します。




「バスジャック事件が教えたもの」


山口由美子(不登校を考える親の会「ほっとケーキ」代表)


2000年のゴールデンウイークの5月3日、私は塚本達子先生と一緒にバスに乗っていました。

塚本先生は佐賀市内で幼児教育の教室を主宰され、我が家の子どもたちがお世話になった先生です。

子どもたちは小学校に入る時点で先生の教室は卒業しましたが、人生に関する多くを学ばせていただいた私自身が先生から卒業できず、交流を続けていました。

この日は一緒に福岡にクラシックのコンサートを聴きにいく予定でした。

バスが高速に入ってしばらくすると、一番前の座席に座っていた少年が突然立ち上がり、牛刀を振りかざしてこう言いました。




「このバスを乗っ取る。 全員荷物を置いて後ろへ下がれ」

最初、私はこの少年が本気でバスを乗っ取ろうとしているとは思いませんでした。

声にすごみはなく、まだ中学生くらいのあどけない少年だったからです。

「何を言っているんでしょうね」

という感じで先生を見たら、意外にも大変驚いた様子で固まっていらっしゃいました。

多くの子どもたちと接し、度胸もあって信仰心も篤い先生は、こんなことでたじろぐような方ではないのに…。

乗客は少年の言うことに従い、後部座席へ移動しました。

その時、1人だけ眠っていて事態に気づいていない方がいました。

「おまえは俺の言うことを聞いていない!」

少年は逆上し、その人の首を刺したのです。

その時初めてこの子は本気なのだと気づきました。

しばらくすると、乗客の1人が「トイレに行きたい」と言い出し、少年はそれに応じて、バスは道路の路肩に止まりました。

その方は1人で降りていかれましたが、おそらく通報されたのでしょう、バスの前に乗用車が何台か止まり始めました。




気づいた少年はさらに逆上し、「あいつは裏切った。これは連帯責任です」

と言いながら、一番近くに座っていた私の顔を牛刀で切りつけました。

とっさに両手で顔を覆うと、今度は手を切られ、次は首、次は…。

何か所刺されたかは分かりません。

あちこちを切りつけられ、私は通路へ転がり落ちてしまいました。

しかし、その時私はこう思ったのです。

ああ、彼の心は、この私の傷と同じくらいに傷ついていたのだ。

そんな少年を殺人者にするわけにはいかない。

なぜ、そんな思いが湧いてきたのか、それはいまだに私にも分かりません。

しかし、その思いが私の命を守ったのだと感じています。




バスはどのくらい走ったのでしょうか。

うっすらとしか意識がないまま床に座り込み、傷の浅かった右手で体を支え、左手は心臓より高い位置にと思ってひじ掛けに置いていました。

そうして数時間が経過した頃です。

バスの速度が落ちたのを見計らって、2人の乗客が窓から飛び降りました。

すると少年は「連帯責任」という意味なのでしょう、塚本先生を2回刺しました。

倒れ落ちる先生を見ながら、私は直感的に「突っ伏したら死んでしまう」と思いました。

「先生、起きて!」と心の中で何度も叫びましたが、自分の体もままならず、どうすることもできませんでした。

広島に入り、パーキングエリアでバスは止まりました。

少年と警察とのやり取りが続いていましたが、詳しくは分かりません。

しかし、怪我をしているということで私は他の乗客の方よりも先に窓から救出されました。




助かった。

その瞬間はそれしか思い浮かびませんでした。

極度の緊張感から解き放たれた私は他の乗客の皆さんのことにも、一緒にいた塚本先生のことにも思いが至りませんでした。

痛い、つらい、怖い、そういうすべての感情が固まって押し寄せ、訳が分からない状態です。

搬送される救急車の中で「もう1人の方はダメだったみたいだなあ」

と職員同士の会話を聞いた時、「そうか。塚本先生は亡くなったんだ…」と、情報だけが体の中を通り過ぎていきました。




塚本先生との出会いは、一番上の息子が4歳の時にさかのぼります。

小学校の教員だった先生は、偏差値教育や受験戦争など現代の学校教育のあり方に疑問を感じて退職。

独自に幼児教室を主宰され、「この世に生まれて初めて出会う教師は母親である」という考えから、子どもたちとお母さんのための教育に専心しておられました。

先生は常々「子どもは自ら育つ力を持って生まれてくる。 大人はそれを援助するだけでいい」とおっしゃっていましたが、この教えが私の子育ての指針となり、特に娘が不登校に苦しんでいた時代には大きな支えになりました。

娘は小学校の時に不登校となり、その後は通えたものの、中学に入るとまた行けなくなってしまいました。

一番苦しいのは娘だと分かってはいるものの、周囲から子育てが悪かったからこうなったと思われたり、この子の将来はどうなるんだろうと不安になったりと、親として娘を受け入れられない時期もありました。

しかし、「子どもには自ら育つ力がある。大人はそれを援助するだけ」という塚本先生の教えがあったからこそ、娘が自分で立ち上がるまで待つことができたのではないかと思うのです。

事件から1か月半、私は広島の病院に入院し、治療とリハビリに励みました。

結局、私は少年によって10数か所刺され、場所によっては、あと少し傷が深かったら死んでいたかもしれないとお医者様は言いました。

私自身、もしも床に倒れていたら、間違いなく出血多量で死んでいたと思っています。

それゆえ、事件の直後は体のあちこちが張り裂けるように痛く、あまりのきつさに、いっそあの時死んでいればよかったと思うほどでした。

時間がたつにつれ、少しずつ加害少年の素性は私にも伝えられました。

少年は娘と同じ17歳、高校は不登校の末、退学…。

「ああ、彼も苦しんでいたんだ」と思いました。

バスの中で、少年が最初に逆上して言ったあの「俺の話を聞いていない!」という言葉。

きっと彼は十七年間、ずっと心の中で「話を聞いてほしい」と訴えていたのでしょう。

しかし、それに耳を傾けなかった周囲の大人たち。

少年は事件によって加害者になりましたが、それまではずっと大人社会の被害者だったのだと感じたのです。




その後、山口さんは「彼にも居場所があったら、こんなことにはならなかったかもしれないね」という友人の言葉を聞いて、小学校に通えない子供や、成人して引きこもってしまった人などのために、親子の居場所づくりを目指す会を立ち上げられます。




死後、塚本先生は私やご遺族に1つの言葉を残されました。

「たとえ刃で刺されても恨むな。恨みは我が身をも焦がす」

これは事故の直後に、先生のご子息が「母の財布に入っていたおみくじの言葉です」と言って教えてくれたものでした。

「母は遺された者たちの心のありようまで示唆して逝ってくれました」とおっしゃった時、あの日の先生の驚いた様子を思い出し、もしかしたら先生はきょうここで、ご自分の命が尽きることを察知したのかもしれない。

そう思いました。

少年によって深い傷を負い、いまも傷あとや後遺症が残る私が、恨むどころか、少年のほうが被害者だと主張するのを聞いて、「山口さんは強い」とおっしゃる方もいます。

しかし「恨みは我が身をも焦がす」という言葉を思うと、実は私は楽な生き方を選んだのではないかと思うのです。

そして、すべての出来事には意味がある。

事件もまた、私にとっては必要な出来事だったと受け止めています。
スポンサーサイト
  1. 2012/09/21(金) 09:49:40|
  2. 泣ける日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9.11

2001年9月11日

ニューヨークのマンハッタン島で、世界貿易センターの2棟の高層ビルがテロリストの攻撃を受け、多くの人命が奪われました。

同時多発テロと言われた「9・11事件」です。

事件が起きてから1ヶ月後、日本全国から11人の消防官が集まって、まだ混乱の残る被害現場で消防・救助活動を手伝うために海を渡りました。

この11人の消防官たちは、日本政府や消防庁が派遣したのではありません。

自らの意思で、休暇をとっての「ボランティア」でした。

この年の6月に『世界警察・消防競技大会』がアメリカで開催されましたが、そこに、日本の代表として選ばれて出場した、世界レベルのトップ技術を持った消防官たちです。

大会で知り合ったニューヨークの消防官から、「仲間が行方不明になっている。助けて欲しい」というSOSのメールが入ったのです。

横浜市の消防局に勤務する志澤公一さんは、それを読むと、一緒に競技大会に出場したメンバーに声をかけました。

そして、11人の消防官が集まったのです。

現場に急いだのですが、アメリカ政府は「消防」の目的とはいえ、事件が起きた中心部への外国人の立ち入りは、厳しく制限していました。

規制線の張られた外側で、もどかしい思いで情報の収集を行なっていると、一人の高齢の牧師さんと出会いました。

その牧師さんは、志澤さんたちが日本から駆けつけた消防官だと知ると、こんな話を始めました。

「私が第二次世界大戦に参加した兵士だったとき、沖縄に上陸して日本人に銃口を向けたことがあります。

それなのに、その日本から我々を助けにきてくれている。

心から感謝します。

ぜひ、あなたたちに手伝っていただきたい」

その牧師さん、実は、ニューヨークの消防官のOBでもあったのです。

そして、すぐに異例ともいえる特別な許可が出て、牧師さんが案内するままに、立ち入りのきびしく制限された現場の中心部にまで入ることができたのです。

その日の作業が終わって、11人の消防官たちはホテルへと引き上げることになりました。

そして道を歩いていると、驚くようなことが起きたのです。

道ですれ違うアメリカ人たちが、志澤さんたちの姿を認めると、駆け寄ってきて、口ぐちに「サンキュー・ベリーマッチ」と声をかけ、時には「ありがとう」と日本語で話しかけて、さらに握手を求める輪ができたのです。

実は11人の活動を、地元のテレビ局が報道していたのです。

しかし、さらに驚くようなことが起きます。

夜、地元ニューヨークの消防官が、今回の活動をねぎらうため、簡単な夕食会をしてくれたときのことでした。

大きなレストランの片隅の席につき、注文を決めていると、突然、店にいた男性が立ち上がり、店内に向かって大きな声で叫んだのです。

「みんな聞いてくれ!

日本から私たちを助けにきた消防官のボランティアが、ここに座ってるんだ!」

それまでにぎやかだった店内が一瞬、静まりかえると、次にはすべてのお客さんが、ナイフやフォークを置いて立ち上がり、拍手をしたのです。

最大の賛辞(さんじ)を贈るという意味が込められた「スタンディングオーベーション」です。

そして、数分間も続いた「拍手」も鳴りやみ、ではあらためてとメニューを開いていると、注文をしていない、食べきれないほどの料理が次から次へとテーブル上に並んだのです。




という話しをラジオ番組の『上柳昌彦のお早うGood Day!』で紹介されました。

日本においても、東日本大震災で活躍し、引き上げる自衛隊員の方々に、横断幕で「ありがとう」と書き、拍手で送るというシーンがたくさんの場所で見られました。

そういった気持ちと行動は大切ですよね。

今日は9月11日なんでこの話しを紹介しました。
  1. 2012/09/11(火) 12:55:05|
  2. 泣ける日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「祈りの手」


「祈りの手」という有名な絵があるのをご存じでしょうか。

アルブレヒト・デューラー(1471年から1528年)というルネッサンス時代の優れたドイツの画家が描いた作品です。

その作品にまるわる感動的な話です。




いまから500年ほど前、ドイツのニュールンベルグの町にデューラーとハンスという若者がいました。

2人とも貧しい家に生まれ、小さな時から画家になりたいという夢を持っていました。

2人は版画を彫る親方の元で見習いとして働いていましたが、毎日忙しいだけで絵の勉強ができません。

思いきってそこをやめて絵の勉強に専念したいと思いましたが、絵の具やキャンバスを買うお金もままならないほど貧しく、働かずに勉強できるほど余裕はありませんでした。




ある時、ハンスがデューラーに1つのことを提案しました。

「このままでは2人とも画家になる夢を捨てなくてはいけない。でも、僕にいい考えがある。2人が一緒に勉強はできないので、1人ずつ交代で勉強しよう。1人が働いてもう1人のためにお金を稼いで助けるんだ。そして1人の勉強が終わったら今度は、別の1人が勉強できるから、もう1人は働いてそれを助けるのだ。」

どちらが先に勉強するのか、2人は譲り合いました。

「デューラー、君が先に勉強してほしい。君の方が僕より絵がうまいから、きっと早く勉強が済むと思う。」

ハンスの言葉に感謝してデューラーはイタリアのベネチアへ絵の勉強に行きました。

ハンスはお金がたくさん稼げる鉄工所に勤めることになりました。

デューラーは「1日でも早く勉強を終えてハンスと代わりたい」とハンスのことを思い寝る時間も惜しんで絵の勉強をしました。

一方残ったハンスはデューラーのために早朝から深夜まで重いハンマーを振り上げ、今にも倒れそうになるまで働きお金を送りました。

1年、2年と年月は過ぎていきましたがデューラーの勉強は終わりません。

勉強すればするほど深く勉強したくなるからです。

ハンスは「自分がよいと思うまでしっかり勉強するように」との手紙を書き、デューラーにお金を送り続けました。

数年後ようやくデューラーはベネチアでも高い評判を受けるようになったので、故郷に戻ることにしました。

「よし今度はハンスの番だ」と急いでデューラーはニュールンベルクの町へ帰りました。




2人は再会を手を取り合って喜びました。

ところがデューラーはハンスの手を握りしめたまま呆然としました。

そして、泣きました。

なんとハンスの両手は長い間の力仕事でごつごつになり、絵筆がもてない手に変わってしまっていたのでした。

「僕のためにこんな手になってしまって」と言ってデューラーはただ頭を垂れるばかりでした。

自分の成功が友達の犠牲の上に成り立っていた。

彼の夢を奪い、僕の夢が叶った。

その罪悪感に襲われる日々を過ごしていたデューラーは、「何か僕に出来ることはないだろうか」

「少しでも彼に償いをしたい」

という気持ちになり、もう一度、ハンスの家を訪ねました。





ドアを小さくノックしましたが、応答はありません。

でも、確かに人がいる気配がします。

小さな声も部屋の中から聞こえきます。

デューラーは恐る恐るドアを開け、部屋に入りました。

するとハンスが静かに祈りを捧げている姿が目に入りました。

ハンスは歪んでしまった手を合わせ、一心に祈っていたのです。




「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。自分を責めています。神さま、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。そして、私が果たせなかった夢も、彼が叶えてくれますように。あなたのお守りと祝福が、いつもデューラーと共にありますように」

デューラーはその言葉を聞いて心打たれました。

デューラーの成功を妬み恨んでいるに違いないと思っていたハンスが、妬み恨むところか、自分のことより、デューラーのことを一生懸命祈ってくれていたのです。

ハンスの祈りを静かに聞いていたデューラーは、祈りが終わった後、彼に懇願しました。




「お願いだ。君の手を描かせてくれ。君のこの手で僕は生かされたんだ。君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ!」




こうして、1508年、友情と感謝の心がこもった「祈りの手」が生まれました。




という話しです。
ハンスは、デューラーのために働き、お金を送り続けたが、ハンスの絵描きになりたいという夢は実現できませんでした。
でもハンスのおかげでデューラーは、世に出て認められ、多くの作品を描くことができました。
ハンスがいなければ、デューラーの作品は生まれなかったかもしれません。
しかも、ハンスが自分のしてきたことに納得しています。
陰ながら支え、応援してくれている人がいたからこそ成功したのだと思います。
寛い心をもち、人の幸せを願う、素敵な話しです。
  1. 2012/09/09(日) 16:34:13|
  2. 泣ける日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

娘の残した九冊の日記

二十二年前、十一歳だった娘の亜紀子は「ママ、ごめんね……」という言葉と九冊の日記帳を残し、この世を去りました。




三歳で白血病を発病し、人生の大半を闘病生活に費やした彼女の最期は、穏やかで安らかなものでした。

しかし私の胸の中に去来したのは、罪悪感以外の何ものでもありませんでした。




当時私は中学校の国語の教師をしていましたが、二十二年前といえば日本中の中学が荒れに荒れ、私の赴任先も例外ではありませんでした。

昼間、学校で生徒指導に奔走し、ヘトヘトになって帰宅すると、娘が一晩中、薬の副作用で嘔吐を繰り返す。

あるいは妻から「きょうは亜紀子が苦しそうで大変だった」と入院先での容態を聞かされる。

「俺はもうクタクタだ。一息つかせてくれ」と心の中で叫んでいました。

そしてある日、妻にこう言ったのです。

「治療はおまえに任せる。俺は学校で一所懸命仕事をする。経済的に負担をかけないようにするから、任せておけ」

もっともらしく聞こえるでしょう。

しかし本心は「逃げ」でした。

彼女を失い、初めて治療に関して「見ざる・聞かざる」の態度を取り続けたことへの罪の意識が重く重く圧し掛かってきました。なぜ、もっと一緒に病気と闘ってやらなかったのだろう。

俺は罪人だ……。

もういまさら遅いけれども、彼女の八年の闘病生活と向き合いたい。

その思いから、娘が残した九冊の日記帳に手を伸ばしたのでした。




「十二月二日(木)

 今度の入院からはいろいろなことを学んだ気がします。

 今までやったことのない検査もいろいろありました。

 でも、つらかったけど全部そのことを乗りこえてやってきたこと、やってこれたことに感謝いたします。

 これはほんとうに、神様が私にくれた一生なんだな、と思いました。

 きっと本当にそうだなと思います。

 もし、そうだとしたら、私は幸せだと思います」




「二月十日(木)

 早く左手の血管が治りますようにお祈りいたします。

 そして日記も長続きして、元気に食よくが出ますように。

 また、いつも自分のことしか考えている子にしないで下さい」




点滴点滴の毎日で左手の血管が潰れ、文字は乱れていました。

それでも一所懸命書いたこの一文に十一年間の彼女の人生が象徴されているようで、私にはとても印象に残りました。

あれは彼女が亡くなる数日前のことでした。




朝、妻に頼みごとをして仕事へ行きましたが、その日は検査や治療で忙しかったらしく、夕方私が病院に着いた時、まだ手つかずのまま残っていました。

「きょうは忙しくてできなかった」

と妻に言われ、一瞬ムッとした顔をしましたが、娘はそれを見て、「ママやってあげて。私のことはいいから」と言ったのです。

命が尽きるその時まで自分のことだけを考えている子ではありませんでした。

すべて読み終えた時、私は胸を打たれました。

普通に学校にも通いたかったでしょう。

こんなに苦しい闘病生活を送らなければならない運命を恨みたくもなったでしょう。

しかし日記には同じ病室の子どもたちを思いやる言葉や、苦しい治療に耐える強さをくださいという祈りの言葉、明日への希望の言葉、そんな強く美しい言葉ばかりが記されているのです。

広い世の中から見れば、一人の少女の死に過ぎませんが、この日記から得る感動は親の贔屓目ではなく、誰もが同じ気持ちを抱くだろうと思いました。




私は彼女へ対する懺悔の気持ちと相まって、「娘の日記を世に送り出したい」と思い至りました。

そうして教職を辞して出版社を設立、娘が残した日記をまとめ出版したのです。

各マスメディアが取り上げてくださったおかげで反響を呼び、映画化もされました。

たくさんの激励のお手紙をいただき、それを励みに今日まで毎年一冊ずつ彼女が残した日記を出版し続けることができました。




もちろん、行き詰まりそうになったことはたくさんあります。

十一年前には映画の製作会社が倒産し、フィルムが紛失しかけたことがありました。

それをなんとか見つけ出し、財産をはたいて版権を買い取りました。

映画技師の資格を取り、平成五年からは自主上映会と同時に講演を行う形で全国を行脚しています。




人は私のことをただの「親ばか」だと思うかもしれません。

しかしこの二十二年間、私は娘の日記によって生かされてきました。

読者の方や講演先とのご縁をいただき、さらに「感動した」、「これからもあっ子ちゃんのことを伝えてください」、という励ましの言葉をいただける。

それがいまの私の支えです。

娘の亜紀子は短くとも最期まで前向きに、他の人を思いやって生き抜きました。

本当はもっと生きたかったはずですが、それは叶わなかった。

そんな女の子がいたことを、出版や講演を通して世に伝えることで、あたかも人間の命が弄ばれているかのような現代社会に対し、命の尊さを訴えたいと思っています。




先日、私の講演もついに百回目を迎えましたが、その会場は偶然にも娘が亡くなるまで通った小学校でした。

遥か後輩にあたる子どもたちが、「一日一日を大切に生きたい」という感想をくれました。

私の活動は世の一隅を照らすことしかできませんが、どんなことがあっても続けていかなければならないという気持ちを新たにしました。




  1. 2012/09/04(火) 05:06:20|
  2. 泣ける日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。