泣けるまぁちゃんねる

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自分をえらんで生まれてきたよ

雲の上から、お姉さんとお兄さんを見て、「どの人がやさしいかなあ」って、見ていた。

それで、ママのところにした。

ママなら、心のことをわかってくれると思ったら。




生まれる前、ぼくはすごく強い赤ちゃん忍者で、しゅりけんで、51人やっつけて、「もうママは、だいじょうぶ」って思ってから、おなかの中に入った。

ママのこと、かかしみたいに、守っていた。

ぼくは、ママを守っているんだよ、いまも。




赤ちゃんが病気のときは、「苦もあれば、後から楽もある」ということを、神さまが、伝えてくれている。

だから、心配しなくていい。

赤ちゃんが生まれたおうちには、必ず、楽がある。

というか、生きているものには、必ず、楽がある。




赤ちゃんは、どのお母さんにするか、どんな体にするか、どんな性格になるか、自分で決めて生まれてくるのが、ふつうだよ。

僕が病気で生まれたのは、病気で生まれる子や、お母さんちを、励ますためだ。

だから、ママは、ぼくの言葉を、みんなに教えていい。

ぼくは、病気だったから、幸せなんだ。

ぼくは、病気だったから、心の言葉が話せるんだ。

だから、いつか、心の幸せを配るサンタさんになるんだ。




ぼくがかわいいのは、ママがぼくを守るためだよ。

ぼく、かわいがられるために、生まれてきたんだよ。

ママは、かわいがってくれると思ったから。




人は必ず、喜びをもっている。

たとえば、生きる喜び。悲しめる喜び。

じつは、悲しめるというのは、幸せなことなんだよ。

いろいろな気持ちは、ぜんぶ幸せなんだ。

悲しめる喜びというのは、悲しんだ後、またハッピーになるでしょ。

そのハッピーは、前のハッピーより、もっと大きいハッピーになる。

だから、悲しみって、たいせつなんだよ。




人は、みんなにいいことをするために、生きている。

それを、「自分の仕事」という。

みんなのために働かないと、仕事とは呼ばない。

「自分の仕事」がなければ、生きていけない。




といく印鑰理生(いんやくりお)君のお話しです 。

お母さんは、りお君の事を「ちょっぴり個性的な心臓と肺をもって、この世に生まれてきた」と言います。

この詩は、りお君の小さい頃からのおしゃべりを、お母さんがまとめたものだそうです。

人は、みんな「自分」を選んで生まれてきた。

いいことをするために生きている。

ステキな話しですね
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  1. 2012/11/22(木) 12:57:26|
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親不孝丼

「お帰り!今日はどうする?」

私が中学3年の頃毎週土曜日の出来事でした




札付きのワルだった私は、ダボダボのズボンにパンチパーマ

さらしを巻いて地元の商店街を肩で風を切りながら歩いておりました

そして、商店街の中心にある母が勤めていたお蕎麦屋さんに毎週土曜日カツ丼を食べに行くのが日課になっておりました

まるで常識を知らない私は入口の引き戸をガラガラと開け、ドン!とイスにふんぞり返ると思ったらまだ14歳のくせにシュッとたばこに火をつけフゥーッと一服する。。。

そして毎回母が笑顔で「今日は何を食べる?」と聞く

私は母の顔も見ないで「カツ丼」とひと言答え、煙草を吸いながら漫画を読む。。。

こんな出来事が毎週土曜日繰り返されておりました




地元では悪名高い私

商店街を歩いているだけで、みんなにジロジロと見られ避けて通られる

地元で後輩に会えば私の影が見えなくなるまで大きな声で「こんにちは!こんにちは!」と挨拶を繰り返しその声の大きさにビックリして小さい子が泣く始末。。。

私に触る人間がいたら切り裂いてやる!くらいの気持ちでいつも体から殺気を出しておりました

そんな私ですが、唯一楽しみだったのが母の働く『大村庵』のカツ丼です

毎週、何があっても必ずカツ丼を食べに行っておりました

ですが今になってわかります

そのときの母の苦しさを。。。

私が店に行くだけで大迷惑なはず

煙草を吹かし、店のオーナーに挨拶もしない

まるで母の立場を考えていなかった私でした

ですが、母はいつも笑顔でした

そんな非常識な私に対して笑顔でした




ある日の土曜日

いつものように『大村庵』にカツ丼を食べに行きました

するといつも笑顔で近寄ってくる母の姿が見えません

代わりに店の奥さんが私のそばに来て「お母さん、今日は休んでもらったよ」と言いました

私が「なら、帰る。。。」と言って店を出ようとしたら「ちょっと待ちなさい!カツ丼食べていきな!」

店の奥さんに呼び戻され、私はしぶしぶ席に着きました

すると、奥さんが私に言いました

「今日は私が無理矢理お母さんを休ませたんだよ!あんたに話があってね!」

そう言うと、1枚の写真を持ってきました




写っていたのは10歳の頃の私。。。

子猫を3匹抱きかかえ子どもらしく自然な笑顔でした。。。

奥さんは言いました

「お母さんはね、いつもこの写真を見ては私たちに言ってるんだよ!この子は虫も殺せないくらい優しい子なんです。そしてこの頃は毎週日曜日になるとみんなに朝ご飯でチャーハンを作ってくれるんです。それが私は楽しみで。。。」

そうです

私の幼い頃の夢は料理人になること

毎週日曜の朝は母に初めて教えてもらったチャーハンを作るのが楽しみで家族みんなで朝ご飯として食べておりました




「あんたね、毎週来て煙草を吸ってカツ丼食べて無言で帰ってお母さんがその後どんな気持ちかわかる?私たちに何度も頭を下げて『あの子は本当は優しい子なんです』って。。。それにね、あんたが来た日はお母さんは賄いを食べないで帰るんだよ!週に3回3時間くらいしか働けないのにあんたがカツ丼食べたら1時間分の時給がなくなるんだよ。お母さんは自分の賄いの分を毎週あんたの昼ご飯に回しているんだよ!」

「いつまでも親に迷惑や心配をかけて、ヘンな格好で町を歩き回って恥ずかしくないのかい!!!」

私は何も言えませんでした。。。

「今日はあんたの誕生日を祝うってお母さん言ってたけど、もうすぐ誕生日なんだろ?あんたが帰ってきても帰ってこなくても、あんたが好きな鶏の唐揚げとポテトサラダを作って待ってるって言ってたよ!ちゃんと帰るんだよ!」




14歳の冬の出来事です。。。

何の気なしに希望した調理学校への進学

お金もたくさんかかります

そのために母は働き、自分勝手な私は母の賄いまで取り上げ我が物顔で母の職場に来ては非常識な態度を繰り返していたのです

私は母の作る鶏の唐揚げが大好きでした

でもその頃はろくに家にも帰っていなかったので「自分は母が作る鶏の唐揚げが大好きなんだ!」ということすら完全に忘れていました

ですが奥さんのひと言で完全に忘れていた鶏の唐揚げの味をハッキリと思い出し、同時にその頃の楽しかった思い出が走馬燈のようによみがえりました

そして急に私の目から涙が溢れ出し止まらなくなりました。。。

1年前なら何も感じなかった私ですがもうすぐ15歳になる私は奥さんの言葉が心に響いたのです

奥さんも泣いておりました。。。

奥さんが語ってくれた言葉が私に気づかせてくれたのです

そして私の涙は心のしずくとなり、私自身の乾き切っていた心に潤いを与えてくれました




その後、奥さんは無言で調理場に戻り「私からの誕生日プレゼントだよ、食べな」

そう言うと大盛りのカツ丼を私に食べさせてくれました

その日、私は決めました

母の目を見て話せるようになるまで、母に恩返しができる日までカツ丼は食べないと。。。

1984年の出来事です

私は料理人の道を選び23年後、38歳になりました

そろそろ親不孝丼の封印を解いてもよい時期がやってきたようです

ですが、料理人になった今でも母の作る鶏の唐揚げの味を超えることはできません

いや。。。

一生超えることはできないでしょう




感涙食堂での下村さんの話しです
  1. 2012/11/15(木) 09:24:08|
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奇跡のレストラン

特別養護老人ホームに入居して5年目を迎える祖母の、初めての大きなワガママだった。

「レストランでレモンステーキを食べたい」。

かなり重度の認知症を患い、下半身も車椅子生活の祖母の言葉に、私はとても驚いてしまった。

果たして本当にそう要求しているのだろうか、それともたまたま口から出た思いつきの言葉なのだろうか。

不幸にも私は両親を既に亡くしていて真意を確認する方法はなかった。

4歳上の兄が遠い北海道にいることはいるが、そんな言葉に取り合ってくれるのかという不安があった。

久し振りの電話の向こうの兄は意外にも真面目な口調だった。

「本気なんじゃないの?ばあちゃんは昔、ベースのEMクラブで働いていたらしいから、きっとその頃に戻っているんじゃないかい?」

初めて聞いた祖母の職歴に私は少し動揺していた。

「ベースの・・・・・?」

そう、確かに私を含めて祖母も出身は長崎県の佐世保市。

米軍基地でにぎわう街。

基地のことはみな「ベース」と呼び、その中にある将校クラブは確かにEMクラブと言っていた気がする。

幼い私も両親に連れられてステーキだのハンバーグだのを食べさせてもらっていた。

でも、祖母がその店に働きに行っていたなんてことはまったく知らなかった。

しかし、そう言われて思い返してみると祖母は私達のおやつ代わりに「ホットドック」や「ピザ」をよく作ってくれていた。

私は今まで、単に佐世保の人間は街角でもどこでもホットドックを食べるのが当たり前だと思っていた。

しかしよく考えてみると、家庭でそれを作ってくれていたのは少々不思議なことであって、気づかないのがおかしいくらいだ、何と言っても昭和40年代後半のことなのだから・・・

じゃあ、きっと祖母がレストランに行きたいというのは本心なのだ。

記憶がまだらになっていて現在のことは何一つわからないのに、遠い昔の話はとてもよく憶えていたりする。

認知症独特な症状なのだろうけど。
2007年、夏前頃から急に弱り出した祖母、その口から「レモンステーキ」が出る回数が増え出したのも事実・・・。

佐世保に連れて行くべきなのだろうか。

主治医に遠出の件をそれとなく話したら、「生命を削るかもしれない」と、重い言葉が返ってきた。

最近は食も細くなって、おかゆも数口しか食べなくなっていた。

「レモンステーキ・・・・か」。

主人に話をして、どうにかならないかと考えてみた。

「『H』に相談してみるかい?」

その店は私達家族がよく行く街の洋食屋。

夫婦でやっている店で、オムライスやハンバーグランチがおいしくって娘たちにも人気の小さな店のこと。

「レモンステーキですか?」

オーナーシェフは深く考えこんでしまった。

長い私の話を聞いてくれ、腕を組みかえながら「しばらく考えさせてくれませんか?」と言われた。

その頃の私は半ばあきらめかけていた。

祖母もベッドの上での生活が1日の大半を占めるようになっていた。

そばで白髪をなでつけてあげていると薄い布団から両手を宙に出し、眼で追いながら両手を動かし、何かを言いかける。

宙で編み物でもしているかのように両手を交互に動かしていた。

口は相変わらずモゴモゴと。

一体何を・・・・?動作の意味がわからないまま日数だけが経っていった。

家で『H』のオーナーからの電話を受けた主人が明るい声で私に叫んだ。

「レモンステーキ!作ってくれるらしいよ!」

それは3日後のお昼に3名様のお席を用意できます。

という嬉しい電話だった。

日曜日の忙しいときなのに奥側のゆったりしたスペースを私達のために空けてくれたオーナーに感謝しながら、車椅子を押して入って行った。

「予約席」と記された広いテーブルには、白いテーブルクロスがかけてあり、真白い皿を中央に、その左右には銀色のフォークとナイフが数本ずつ並べてあった。

足の長いグラスとともに、この店は普段、お箸で食べられる洋食屋なのに・・・。

それに祖母は両手が上手く使えない、そう思ったときだった。

祖母が両手でフォークとナイフを取り、嬉しそうに笑ったのだった。

折りたたんであった布ナプキンも広げて胸元に挟み込んで。


「お待たせいたしました、レモンステーキです」

オーナーみずから運んでくれた熱い鉄皿の上には、薄切りの牛肉がバターの香りに包まれてジュウジュウと音を立てていた。

かたわらにクシ型に切られたレモンが添えられて。

祖母はサッとレモンを手に取ると肉の上から汁を絞りかけはじめた。

唖然とする私達の目の前で銀のフォークとナイフで肉を切り始めた。

「あ、あの手つきは」

そう、ベットの上で動かしていた両手はまさに肉を切る様子だった。

重いフォークも気にせず祖母はみるみるうちに肉を食べてしまった。

残った皿の汁にパンをちぎってはつけておいしそうに食べていた。

何と言う・・・・

「オーナーこれは・・・どうして?」

私の質問にオーナーは少し照れたように話してくれた。
私からの依頼の後、考えて考えた、結局佐世保の米軍基地に尋ねてくれたというのだ。

古くからのレシピは今も受け継がれていて、快く教えてくれたという。

テーブルの配置もすべて昔のEMクラブの通りにしてくれたのだと。

「あ、そんな・・・ ありがとう、ありがとうございます。」

私は涙で声も出なくなっていた。

こんなにおいしそうに食事をしている祖母を見たのは初めてだった。

主人と共にレモンを絞って酸味の利いたステーキを口に入れた。

その途端、私の中の涙の栓が抜けてしまっていた。

「早く食べないと冷めるから」祖母のしっかりした言葉が何度も何度も私の心の奥に響いていた。

常連でもない私達の無理な願いに数十倍ものお返しをしてくれたオーナーシェフ。

その優しさと人柄は私の心から一生消えない思い出となった。

祖母との外食は悲しいかな、あの日が最後となってしまった。
あのレモンステーキをほおばった祖母は、あの1日のためだけにすべての力を使っていたかのように見えた。

遠い昔のEMクラブでレモンステーキを食べていた祖母があの席にいたのだと思う。

人生にはきっと何度かは奇跡ということがあるのだろう。

そして、その奇跡を与えてくれる人が存在することを私は確信している。私もいつの日か、誰かのために奇跡を与えてあげられたら・・・・

はにかんだ笑顔のオーナーシェフのように。

ありがとう。

祖母はとても幸せです。

これほどまであたたかい料理をいただいたのは初めてです。

本当にありがとう。




ぐるなびの、飲食店での感動体験を一般の方々に広く公募した、「オソトdeゴハン」感動体験エッセイコンテスト。

724作品の中から選ばれた山口美亜紀さんの、最優秀作品です。
  1. 2012/11/11(日) 11:11:11|
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