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九人の乙女


1945年6月に沖縄が戦火にさらされたことは日本人なら誰もが知るところだが、日本国内で戦場になった地として樺太もあることは、あまり認識されていないかもしれない。

その理由は、沖縄と異なり今では日本の領土ではなく、住民たちが散り散りになっており、戦場の跡を自由に訪れるのも叶わないためだろうか。

終戦の日の最期の話しとして、『北のひめゆり』として語り継がれている話しを紹介します




「皆さん、これが最後です。さよなら、さよなら・・・」の悲しい言葉を最後に、昭和20年(1945)8月20日、終戦5日後に、樺太(からふと)真岡(まおか)郵便局で電話交換業務を終えた後、自らの若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられた、高さ1.8m、幅2.4mの登別石で造られた屏風状の碑です。

真岡町(現ホルムスク)は、人口約2万人で樺太西海岸南部に位置し、北海道の各港との定期船も絶えなかった平和な港町でした。日本領である南樺太は、ソ連領である北樺太とは北緯50度線をもってきっちりと一線を画されており、昭和16年(1941)太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入することになりましたが、日ソ中立条約(領土不可侵・中立維持を約束した条約)が締結されていたこともあり、国境での紛争はほとんどありませんでした。

ところが昭和20年(1945)2月に、米・英・ソの首脳によりヤルタ秘密協定が結ばれたこともあり、同年4月ソ連は日本に対して条約を一方的に破棄する旨を通告、対日戦に備えて満州や樺太、朝鮮の国境地区に兵力を集結しました。

ヤルタ秘密協定は『ドイツが降伏し、ヨーロッパにおける戦争が集結したのち、2~3ヶ月後には南樺太をソ連に返還することを条件に、ソ連が日本に対する戦争に参加する』ということを約束したものでした。

そして、昭和20年(1945)8月9日の朝、樺太国境警察がソ連軍の不意の攻撃を受け、40年間にわたる国境の静寂が破られたのです。

ソ連軍による進撃・砲撃は、国境を接する町から次第にその範囲を拡げ戦況は悪化する一方で、樺太兵団は、中央国境を突破するソ連軍を側面から支援する部隊が真岡地区にも上陸するものと判断、この地区の守りを固めようと努力を続けていました。当時、真岡郵便局における電話交換業務は、市内・市外ともすべて女性交換職員による手動交換接続方式でしたが、特に戦時下における電話交換業務は国防用また緊急連絡用として重要な使命を担い日夜繁忙を極めていました。

この非常事態に、老人、子供、女性、病人等を優先して島民の緊急疎開が開始されました。

そして8月16日、真岡郵便局長は上司から「女子職員は全員引き揚げるよう、そのため業務が一時停止しても止むを得ない」との命令を受けました。

ほっと安心すると同時に、皆その知らせを喜んでくれるだろうと思っていた局長でしたが、意外な事に局員からは「全員、疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と告げられました。

局長はソ連軍の進駐後起こるであろう悲惨な状況を話し説得したが応じてもらえなかったといいます。

きっと彼女らは交換業務の重要性を認識し、その責任感・使命感を健気(けなげ)なほど感じていたからこそ、このような覚悟をしたものなのでしょう。

友人や知人が次々と北海道へ向けて避難を始める中で、多くの女子職員が職場に踏みとどまり交換作業に従事していました。

そして、迎えた8月20日の朝6時頃、真岡は身にまといつくような濃霧でした。

霧の中にぼんやりと見える埠頭倉庫のトタン屋根は霧にぬれてにぶく光り、疎開する島民を北海道へ輸送する船や北部から難を逃れてきた漁船等がぎっしりと岸壁についていました。この霧の中をソ連船団は、真岡港に接近しつつありました。

そして船団は湾の中央に進みそれぞれの部隊を上陸させ、船団が反転、退避するとこれを援護するため、上陸部隊の火器が一斉に火を吹き、たちまちにして真岡市街は戦火に包まれました。

臨海地区を手中に収めたソ連軍は、続いて山の手に向かって戦線を拡大し、各所に砲撃による火の手が上がり、黒煙が霧の流れた空を覆い、火の粉が風下一帯に降り注ぎました。

最後の時が迫った恐怖から人々は裏山の芋畑やクマザサの茂る野をはうようにして尾根を越え、ある者は鉄道のレール伝いに逃げまどいました。

真岡郵便局では早朝5時半過ぎ、真岡の北約8kmの幌泊から、「ソ連の軍艦が方向を変え、真岡に向かった」との連絡を受けた電話主事補が、仮眠中の宿直者全員を交換台に着席させ、関係方面への緊急連絡を行うとともに郵便局長にこの旨、電話で報告を行いました。

郵便局は場所的にも戦火に巻き込まれる位置にあり、交換室にも弾丸が飛び込むなど、極めて短時間のうちに危機は身近に迫っていました。

しかし、緊急を告げる電話回線を守り、避難する町民のため、またこれらの状況を各地に連絡するため、最後まで職務を遂行したのです。同じ樺太にある泊居郵便局長は、当日の状況をこう話しています。

「午前6時30分頃、『今、皆で自決します』と知らせてきたので『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』と繰り返し説いたが及ばなかった。

ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと『電話主事補さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん...、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで...。さようなら』という声が聞き取れた。

自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。

誰かが、交換手さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っています。

電話主事補さんの知らせで自らも郵便局にかけつける途中、腕に銃弾を受けてソ連兵に連行されてしまった真岡郵便局長は、数日後ソ連軍の将校の許可で局内に立ち入ることができました。

その時の様子を、同局長は「9人は白っぽい制服にモンペをはいており、服装はみじんも乱れていなかった。

また、交換台には生々しい数発の弾痕があった。

さらに、睡眠薬の空き箱があったことは見苦しくないようにするため、睡眠薬を飲んだあと、青酸カリを飲んだのであろうが、息絶えるまで送話器に向かって呼びかけていたようだ。」と語っています。

彼女達は、ブレストを耳にプラグを手に握りしめ、最後まで他局からの呼び出しに応ずるために交換台にしがみついたまま倒れていました。

遺体の確認に立ち会ったソ連軍将校も、悲惨な室内の状況を目の前にして、胸で十字架をきって黙祷したといわれています。

当日交換業務を行っていた9人の中で最年長だった電話主事補は、殉職の日の前日、北海道に疎開する母を港で見送った時、"いざとなったらこれがあるから大丈夫"と胸をたたいて見せました。

それが青酸カリだと知った母親は、顔色を変えたといいます。

それほど、明るくて物事をはきはき言う人でした。

殉職した9名の交換手達はいずれも10代の後半から20代前半の若い女性達です。

通信確保の任務を果たし、最後の言葉を残して9人の乙女達は、若き青春に訣別して行ったのです。




彼女達の壮烈な最後は詩になり、小説になり、映画にもなって「九人の乙女」の悲しい物語として広く知られ、昭和38年(1963)には稚内公園内に彼女達の霊を慰め、その功績を永久に讃えるために『九人の乙女の碑』が建立されました。

また、貴重な関係資料は、同公園内にある開基百年記念塔(北方記念館)に収められています。
  1. 2012/08/15(水) 23:59:00|
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