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ブータンの農業の父

西岡京治(けいじ・1933~92)その名を知る人はあまりいないかもしれません。

しかし、ブータンでは、「農業の父」とされ、国民のほとんどにその名を知られています。




そもそもブータンという国が日本には知られていない。

人口は100万人ほどの小国で、国民の大半は農業で生計を立てているが、国土の大半は山と谷であるため耕作地は1割程度に過ぎない。

彼は28年にわたって農業技術指導を行い、農産物の生産力を飛躍的に増大させ、若いリーダーの育成に成功した。

ブータンを愛し、ブータンのために生き、ブータンで亡くなった。




1964年、脱穀機すら普及していないヒマラヤの国ブータンに、海外技術協力事業団として新妻・里子さんと二人で赴任。

しかし、外との交流がまったくなかったブータンに、突然見知らぬ外国人がやって来て農業の近代化を説いても、誰も相手にしませんでした。

そこで彼は、自ら小さな実験農場を作り、その成果を見てもらう方法をとることにしました。

実験農場で栽培された野菜を国会議事堂前に展示してみた。

これが大評判となり、訪問客も増えていった。

2年の任期が終えようとするとき、彼は悩んでいた。

ようやくブータンの農業がわかりかけてきた時、ここで帰国しては当初の目的は果たせないし、この2年間も無駄になる。

こんな気持ちで悶々としていると、彼の努力を評価して国王から任期延長の話が飛び込んできた。

さらに国王から広い農業用地を提供するという申し出もあった。

彼は「ブータンに来てこれほど嬉しかったことはなかった」と語っている。




この時作られた農場が、ブータン農業の近代化を担っていくバロ農場である。

1976年から4年間、国王の立案によるシュムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わる。

この県は貧しいブータンの中でも最も極貧地域で、中央から忘れ去られた土地といわれていた。

人々は昔から焼畑農法に頼っていた。

一番困難であったのは、地域の人々を説得することであった。

彼の粘り強い説得が続いた。

西岡の考えは、自分達がやれることは極力自分達の手で行なう、身の丈にあった開発であった。

最小の費用で最大の効果、彼の信念である。

この開発期間に、極貧地域は驚くべき変化を遂げた。

水田は50倍に拡大し、農民の生活は安定し、子ども達が学ぶ学校もできた。




20年以上という異例の長期指導を続ける彼に、帰国を促す目的で派遣された国際協力事業団の調査団は、彼の業績に絶賛した。

日本の国際協力事業の最も成功した例とも言われる。

1980年9月4日、彼の活動を積極的に支援してきた王室から、「ダショー(BESTの意)」の爵位を受けた。

「最高に優れた人」という称号で、ブータンでは最も名誉あることであった。




1992年、3月21日、日本にいる妻・里子さんに一本の国際電話が入った(子どもの教育を考え、彼は単身での生活であった)

「ダジョー・ニシオカが亡くなられました・・」

彼は敗血症にかかり、ブータンの病院で息を引き取った。

59歳でした。

西岡の葬儀は妻と娘の到着を待って、3月26日に行なわれた。

国葬であった。

彼を慕う5千人に及ぶ人々が、ブータン全土から弔問に集まった。

ブータンではこれまで誰も経験したことのない立派で盛大な葬式だったという。

ブータンは国をあげて、西岡に感謝の心を捧げたのである。
  1. 2012/05/01(火) 22:01:27|
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