泣けるまぁちゃんねる

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忘れられないクリスマス

昨日にひき続きクリスマス特集です




22歳で結婚した俺は、嫁さんに幸せになってもらおうと、必死に働いた。


子供も2人生まれて、俺はもっと頑張った。


その甲斐あって、28歳で独立し、自分の会社を持つことが出来た。


33歳になった頃、普通よりはいい暮らしが出来ていたと思う。


嫁さんも子供も喜んでくれた。


だから、俺はもっともっと一生懸命働いて、会社を大きくすることを考えた。




しかし、そのツケは、俺の身体に降りかかった・・・


35歳の時に癌が見つかり、闘病生活が始まった。


と同時に、会社の経営も傾いていった。




37歳のとき、もう俺は死のうと思った・・・


こんな身体で、こんな貧乏で、でも何も出来ない自分が悔しくて、身のまわりを少し整理して、年が明けたら死のうって・・・


そんなことを考えていた年の瀬に、嫁さんと子供がクリスマスパーティーを開いてくれた。


貧乏だから、ケーキの変わりにドラ焼きで、その上にローソク立てて、小さいチキンもあって、シャンパンの変わりにコーラで、メリークリスマスって言っていた。


子供たちが楽しそうにはしゃいでいる姿を見たら、なんだか泣けてきた。


(俺がいなくても元気でやれよ)

そう心の中で思っていた。


もう何回もこうやって遊べないから、おもいっきり遊んであげた。




そして、子供たちが寝静まったあと、思いもしないことが起きた・・・


嫁さんにこう言われたんだ。


「あなたがどう思っているか知らないけど、私は今が一番しあわせよ」


俺はその言葉を聞いて、真っ暗に見えた世界に光が差し、「ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」


何度も言いながら、その場で泣き崩れた。




そのクリスマスの夜、二度と死のうなんて思わないと決めた。


病気も経営も、闘ってからだと・・・




あれから5年、癌はどこかへ消えてしまい、会社も順調。


今年のクリスマスは何をプレゼントしようかと悩めることも幸せなんだ。


よいクリスマスを
  1. 2012/12/25(火) 23:28:11|
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理想の兄

昨年、クリスマスにまつわるお話しをいろいろ紹介させてもらいました

好評だったので今年も、泣ける話し、感動する話しをクリスマスに合わせて二つ紹介します






ある年のクリスマスイブのこと


ポールは、兄さんからクリスマスに新車をプレゼントしてもらった。


ポールがオフィスから出てくると、街でよく見かける少年が、そのピカピカの新車のまわりを歩き回っていた。


よほどその車が気に入ったらしく、ポールに話しかけてきた。




「この車、おじさんのかい?」


「ああ、兄貴からのクリスマスプレゼントさ」と、うなずきながらポールは答えた。


少年はそれを聞いてひどく驚いた様子だった。


「えっ? おじさんの兄さんがくれたって?おじさんは全然お金を払わなくてよかったの?うわあっ、すごいな?ぼく・・・」


と、少年は何かを言いかけたが、そのまま口をつぐんでしまった。


少年は、「ぼくにも、こんな兄さんがいたらなあ」と言いたかったのだろう、とポールは思った。


ところが、少年の口から出た言葉にポールは耳を疑った。




「ぼくね、おじさんの兄さんみたいになりたいなって思ったんだ」


ポールは、まじまじと少年の顔を見つめていたが、自分でも思いがけない言葉が口をついて出ていた。


「この車に乗ってみるかい?」


「本当?ウン」


車を走らせてまもなく、少年の目はキラキラと輝き始めた。


「おじさん、ぼくの家の前まで乗せてくれる?」


ポールは思わずニヤッとした。


きっとこんな大きな車で帰ってくるところを近所の人たちに見せて、自慢したいんだなと思った。


しかし、その憶測はまたもやはずれた。




「あそこに階段がついている家が見えるだろう?そこでちょっと待っててくれる?」


少年は車を降り、駆け足で家に入っていった。


しばらくすると家の中から、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。




少年が身体の不自由な弟を背負って出てきたのだった。


弟を階段の一番下に座らせ、車がよく見えるように弟の身体を支えた。


「ほらバディー、見てごらん。さっき言ったとおり、すごい車だろ。そこにいるおじさんの兄さんがクリスマスプレゼントにくれたんだって。それも、まるっきりタダでくれたんだって。お前も、待ってなよ。兄ちゃんが、いつかきっとあんな車をお前にやってやるからね。そしたら、いつも話してるクリスマスのきれいな飾りを、その車に乗って見に行こうね」




それを聞いたポールは何も言わずに車を降りると、少年の弟を抱き上げ、新車の助手席に座らせた。


目をキラキラ輝かせた少年もその横に乗り込むと、三人はドライブに出かけた。


本当にすばらしいクリスマスのドライブだった。




このクリスマスの日、ポールは聖書のみことばをしみじみ感じたのである。


『受けるよりは与えるほうが幸いである』




「こころのチキンスープ」愛の奇跡の物語
  1. 2012/12/24(月) 23:14:57|
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先生大好き!ありがとう

ビューっと風が吹く寒い日だった。


前日の夜、飼い犬のシロが死んだ。


私が生まれる前から我が家に居た、大きな真っ白の雌犬だった。


優しい性格で、私にとっては姉のような存在だった。


学校に行く道すがら、ずっと涙がこぼれていた。


二年生の教室に着いて椅子に座っても、心の中はシロの事で一杯だった。


先生が入って来た。


笑い声が大きい、とびきり明るくて、どこか私の母に面影が似ている沢先生だ。


先生は私の顔を見るなり、「どうしたぁ?」と聞いた。


私はしかめ面に涙を一杯浮かべていた。


答えようとしたけれど、「シロが・・シロが死んで…。」と言うのが精いっぱいだった。


先生は、「そうかぁ、今日は悲しい日やな。思う存分泣いてもええで。」


涙が次から次へとこぼれた。


そこが教室でも、皆が見ていても止まらなかった。


先生は普通に授業を進めた。


友だちたちも、先生も、それきり何も言わなかった。


私は何者にも邪魔されずに、枯れるまで涙を流す事が出来た。




私たちが通う山あいの小学校は、人数が少なくふたクラスしかなかった。


私は一年生から六年生まで変わらず沢先生が担任だった。


母に似ている先生が私は大好きで、何かと甘えたり、ひっついたりしていた。


うちは母子家庭だったので、母は働きに出ていて不在気味だった。


そのせいもあって、先生は「お母さん」のような存在でもあった。


実際私は先生の事を何度も「お母さん」と言い間違えたが、先生は「お母さんちゃうでぇ。」と笑いながら頭を撫でてくれた。


夏休みや冬休みになると、先生に会えないのが寂しくて学校に行ったり、先生の家に遊びに行ったりした。


先生は私が一人で突然訪れても、迷惑なそぶりも見せず、いつも優しく受け入れてくれた。


皆の先生なのだけど、私にとって特別な人だった。




六年生になって、冬を越した頃先生は病気になった。


丸くて艶々した顔が、見る間に細くなっていった。


私たちは心配で何度も「先生早く元気になってやぁ。」と言った。


2月に先生はとうとう学校を休む事になった。


担任は臨時で教頭先生が兼ねた。


卒業式の前日、先生から家に電話がかかって来た。




「卒業おめでとう!六年間、よく頑張ったなぁ。先生卒業式に行けんでごめんなぁ。」


わたしはその声を聞いて、すぐに涙があふれた。


涙声で「先生、卒業式にはこれへんの?」と聞いた。


先生は「一足先に電話で卒業式やね。声だけやけど顔が目に浮かぶで。又泣いてるんか?小さい時から変わらへん泣き虫やなぁ。でもそれは、美代の良い所やな。優しい証拠の涙やな。」




卒業式で沢先生の電話の事をクラスメートに話したら、一人ひとり、皆の家に電話があったらしい。


先生は私たち皆を心から可愛がってくれた。


卒業まで担任ができなくて残念だっただろう。




それから私たちは山を降りてマンモス校の中学生になり、部活や新しい友人との毎日に埋没していった。




高校に入り、大学生になり、その頃初めて先生が亡くなったと聞いた。


卒業式のすぐ後だったという。


なぜ知らせてくれなかったのか…。


今からでも先生のお墓にお参りしたい。


そう思って私は先生のご実家に電話をかけた。




先生のお母さんが出られて、先生の生前のご意志で子どもたちにはその死が知らされなかったのだと聞いた。


優しくて大好きな子どもたち、その門出を力いっぱい元気に祝ってあげたい。


先生の死を悲しまないで。


先生はいつも皆の事を見守っています。


お母さんはそれだけ告げて電話を切られた。




先生、私は涙をこらえる事もできるようになったよ。


悲しくても、それを乗り越える力も身に付けたよ。


2年生だったあの時、先生が思いっきり泣かせてくれたから。


今の私は悲しくてたまらなくても、先生の笑顔を思って笑う事もできる。


でもやっぱり、涙が少し頬を伝った。


優しい証拠の涙やね。

先生、ありがとう。


先生、大好き。




NTT西日本コミュニケーション大賞より

「先生大好き!ありがとう。」

美代(ペンネーム)
  1. 2012/12/21(金) 00:37:04|
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自分をえらんで生まれてきたよ

雲の上から、お姉さんとお兄さんを見て、「どの人がやさしいかなあ」って、見ていた。

それで、ママのところにした。

ママなら、心のことをわかってくれると思ったら。




生まれる前、ぼくはすごく強い赤ちゃん忍者で、しゅりけんで、51人やっつけて、「もうママは、だいじょうぶ」って思ってから、おなかの中に入った。

ママのこと、かかしみたいに、守っていた。

ぼくは、ママを守っているんだよ、いまも。




赤ちゃんが病気のときは、「苦もあれば、後から楽もある」ということを、神さまが、伝えてくれている。

だから、心配しなくていい。

赤ちゃんが生まれたおうちには、必ず、楽がある。

というか、生きているものには、必ず、楽がある。




赤ちゃんは、どのお母さんにするか、どんな体にするか、どんな性格になるか、自分で決めて生まれてくるのが、ふつうだよ。

僕が病気で生まれたのは、病気で生まれる子や、お母さんちを、励ますためだ。

だから、ママは、ぼくの言葉を、みんなに教えていい。

ぼくは、病気だったから、幸せなんだ。

ぼくは、病気だったから、心の言葉が話せるんだ。

だから、いつか、心の幸せを配るサンタさんになるんだ。




ぼくがかわいいのは、ママがぼくを守るためだよ。

ぼく、かわいがられるために、生まれてきたんだよ。

ママは、かわいがってくれると思ったから。




人は必ず、喜びをもっている。

たとえば、生きる喜び。悲しめる喜び。

じつは、悲しめるというのは、幸せなことなんだよ。

いろいろな気持ちは、ぜんぶ幸せなんだ。

悲しめる喜びというのは、悲しんだ後、またハッピーになるでしょ。

そのハッピーは、前のハッピーより、もっと大きいハッピーになる。

だから、悲しみって、たいせつなんだよ。




人は、みんなにいいことをするために、生きている。

それを、「自分の仕事」という。

みんなのために働かないと、仕事とは呼ばない。

「自分の仕事」がなければ、生きていけない。




といく印鑰理生(いんやくりお)君のお話しです 。

お母さんは、りお君の事を「ちょっぴり個性的な心臓と肺をもって、この世に生まれてきた」と言います。

この詩は、りお君の小さい頃からのおしゃべりを、お母さんがまとめたものだそうです。

人は、みんな「自分」を選んで生まれてきた。

いいことをするために生きている。

ステキな話しですね
  1. 2012/11/22(木) 12:57:26|
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親不孝丼

「お帰り!今日はどうする?」

私が中学3年の頃毎週土曜日の出来事でした




札付きのワルだった私は、ダボダボのズボンにパンチパーマ

さらしを巻いて地元の商店街を肩で風を切りながら歩いておりました

そして、商店街の中心にある母が勤めていたお蕎麦屋さんに毎週土曜日カツ丼を食べに行くのが日課になっておりました

まるで常識を知らない私は入口の引き戸をガラガラと開け、ドン!とイスにふんぞり返ると思ったらまだ14歳のくせにシュッとたばこに火をつけフゥーッと一服する。。。

そして毎回母が笑顔で「今日は何を食べる?」と聞く

私は母の顔も見ないで「カツ丼」とひと言答え、煙草を吸いながら漫画を読む。。。

こんな出来事が毎週土曜日繰り返されておりました




地元では悪名高い私

商店街を歩いているだけで、みんなにジロジロと見られ避けて通られる

地元で後輩に会えば私の影が見えなくなるまで大きな声で「こんにちは!こんにちは!」と挨拶を繰り返しその声の大きさにビックリして小さい子が泣く始末。。。

私に触る人間がいたら切り裂いてやる!くらいの気持ちでいつも体から殺気を出しておりました

そんな私ですが、唯一楽しみだったのが母の働く『大村庵』のカツ丼です

毎週、何があっても必ずカツ丼を食べに行っておりました

ですが今になってわかります

そのときの母の苦しさを。。。

私が店に行くだけで大迷惑なはず

煙草を吹かし、店のオーナーに挨拶もしない

まるで母の立場を考えていなかった私でした

ですが、母はいつも笑顔でした

そんな非常識な私に対して笑顔でした




ある日の土曜日

いつものように『大村庵』にカツ丼を食べに行きました

するといつも笑顔で近寄ってくる母の姿が見えません

代わりに店の奥さんが私のそばに来て「お母さん、今日は休んでもらったよ」と言いました

私が「なら、帰る。。。」と言って店を出ようとしたら「ちょっと待ちなさい!カツ丼食べていきな!」

店の奥さんに呼び戻され、私はしぶしぶ席に着きました

すると、奥さんが私に言いました

「今日は私が無理矢理お母さんを休ませたんだよ!あんたに話があってね!」

そう言うと、1枚の写真を持ってきました




写っていたのは10歳の頃の私。。。

子猫を3匹抱きかかえ子どもらしく自然な笑顔でした。。。

奥さんは言いました

「お母さんはね、いつもこの写真を見ては私たちに言ってるんだよ!この子は虫も殺せないくらい優しい子なんです。そしてこの頃は毎週日曜日になるとみんなに朝ご飯でチャーハンを作ってくれるんです。それが私は楽しみで。。。」

そうです

私の幼い頃の夢は料理人になること

毎週日曜の朝は母に初めて教えてもらったチャーハンを作るのが楽しみで家族みんなで朝ご飯として食べておりました




「あんたね、毎週来て煙草を吸ってカツ丼食べて無言で帰ってお母さんがその後どんな気持ちかわかる?私たちに何度も頭を下げて『あの子は本当は優しい子なんです』って。。。それにね、あんたが来た日はお母さんは賄いを食べないで帰るんだよ!週に3回3時間くらいしか働けないのにあんたがカツ丼食べたら1時間分の時給がなくなるんだよ。お母さんは自分の賄いの分を毎週あんたの昼ご飯に回しているんだよ!」

「いつまでも親に迷惑や心配をかけて、ヘンな格好で町を歩き回って恥ずかしくないのかい!!!」

私は何も言えませんでした。。。

「今日はあんたの誕生日を祝うってお母さん言ってたけど、もうすぐ誕生日なんだろ?あんたが帰ってきても帰ってこなくても、あんたが好きな鶏の唐揚げとポテトサラダを作って待ってるって言ってたよ!ちゃんと帰るんだよ!」




14歳の冬の出来事です。。。

何の気なしに希望した調理学校への進学

お金もたくさんかかります

そのために母は働き、自分勝手な私は母の賄いまで取り上げ我が物顔で母の職場に来ては非常識な態度を繰り返していたのです

私は母の作る鶏の唐揚げが大好きでした

でもその頃はろくに家にも帰っていなかったので「自分は母が作る鶏の唐揚げが大好きなんだ!」ということすら完全に忘れていました

ですが奥さんのひと言で完全に忘れていた鶏の唐揚げの味をハッキリと思い出し、同時にその頃の楽しかった思い出が走馬燈のようによみがえりました

そして急に私の目から涙が溢れ出し止まらなくなりました。。。

1年前なら何も感じなかった私ですがもうすぐ15歳になる私は奥さんの言葉が心に響いたのです

奥さんも泣いておりました。。。

奥さんが語ってくれた言葉が私に気づかせてくれたのです

そして私の涙は心のしずくとなり、私自身の乾き切っていた心に潤いを与えてくれました




その後、奥さんは無言で調理場に戻り「私からの誕生日プレゼントだよ、食べな」

そう言うと大盛りのカツ丼を私に食べさせてくれました

その日、私は決めました

母の目を見て話せるようになるまで、母に恩返しができる日までカツ丼は食べないと。。。

1984年の出来事です

私は料理人の道を選び23年後、38歳になりました

そろそろ親不孝丼の封印を解いてもよい時期がやってきたようです

ですが、料理人になった今でも母の作る鶏の唐揚げの味を超えることはできません

いや。。。

一生超えることはできないでしょう




感涙食堂での下村さんの話しです
  1. 2012/11/15(木) 09:24:08|
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奇跡のレストラン

特別養護老人ホームに入居して5年目を迎える祖母の、初めての大きなワガママだった。

「レストランでレモンステーキを食べたい」。

かなり重度の認知症を患い、下半身も車椅子生活の祖母の言葉に、私はとても驚いてしまった。

果たして本当にそう要求しているのだろうか、それともたまたま口から出た思いつきの言葉なのだろうか。

不幸にも私は両親を既に亡くしていて真意を確認する方法はなかった。

4歳上の兄が遠い北海道にいることはいるが、そんな言葉に取り合ってくれるのかという不安があった。

久し振りの電話の向こうの兄は意外にも真面目な口調だった。

「本気なんじゃないの?ばあちゃんは昔、ベースのEMクラブで働いていたらしいから、きっとその頃に戻っているんじゃないかい?」

初めて聞いた祖母の職歴に私は少し動揺していた。

「ベースの・・・・・?」

そう、確かに私を含めて祖母も出身は長崎県の佐世保市。

米軍基地でにぎわう街。

基地のことはみな「ベース」と呼び、その中にある将校クラブは確かにEMクラブと言っていた気がする。

幼い私も両親に連れられてステーキだのハンバーグだのを食べさせてもらっていた。

でも、祖母がその店に働きに行っていたなんてことはまったく知らなかった。

しかし、そう言われて思い返してみると祖母は私達のおやつ代わりに「ホットドック」や「ピザ」をよく作ってくれていた。

私は今まで、単に佐世保の人間は街角でもどこでもホットドックを食べるのが当たり前だと思っていた。

しかしよく考えてみると、家庭でそれを作ってくれていたのは少々不思議なことであって、気づかないのがおかしいくらいだ、何と言っても昭和40年代後半のことなのだから・・・

じゃあ、きっと祖母がレストランに行きたいというのは本心なのだ。

記憶がまだらになっていて現在のことは何一つわからないのに、遠い昔の話はとてもよく憶えていたりする。

認知症独特な症状なのだろうけど。
2007年、夏前頃から急に弱り出した祖母、その口から「レモンステーキ」が出る回数が増え出したのも事実・・・。

佐世保に連れて行くべきなのだろうか。

主治医に遠出の件をそれとなく話したら、「生命を削るかもしれない」と、重い言葉が返ってきた。

最近は食も細くなって、おかゆも数口しか食べなくなっていた。

「レモンステーキ・・・・か」。

主人に話をして、どうにかならないかと考えてみた。

「『H』に相談してみるかい?」

その店は私達家族がよく行く街の洋食屋。

夫婦でやっている店で、オムライスやハンバーグランチがおいしくって娘たちにも人気の小さな店のこと。

「レモンステーキですか?」

オーナーシェフは深く考えこんでしまった。

長い私の話を聞いてくれ、腕を組みかえながら「しばらく考えさせてくれませんか?」と言われた。

その頃の私は半ばあきらめかけていた。

祖母もベッドの上での生活が1日の大半を占めるようになっていた。

そばで白髪をなでつけてあげていると薄い布団から両手を宙に出し、眼で追いながら両手を動かし、何かを言いかける。

宙で編み物でもしているかのように両手を交互に動かしていた。

口は相変わらずモゴモゴと。

一体何を・・・・?動作の意味がわからないまま日数だけが経っていった。

家で『H』のオーナーからの電話を受けた主人が明るい声で私に叫んだ。

「レモンステーキ!作ってくれるらしいよ!」

それは3日後のお昼に3名様のお席を用意できます。

という嬉しい電話だった。

日曜日の忙しいときなのに奥側のゆったりしたスペースを私達のために空けてくれたオーナーに感謝しながら、車椅子を押して入って行った。

「予約席」と記された広いテーブルには、白いテーブルクロスがかけてあり、真白い皿を中央に、その左右には銀色のフォークとナイフが数本ずつ並べてあった。

足の長いグラスとともに、この店は普段、お箸で食べられる洋食屋なのに・・・。

それに祖母は両手が上手く使えない、そう思ったときだった。

祖母が両手でフォークとナイフを取り、嬉しそうに笑ったのだった。

折りたたんであった布ナプキンも広げて胸元に挟み込んで。


「お待たせいたしました、レモンステーキです」

オーナーみずから運んでくれた熱い鉄皿の上には、薄切りの牛肉がバターの香りに包まれてジュウジュウと音を立てていた。

かたわらにクシ型に切られたレモンが添えられて。

祖母はサッとレモンを手に取ると肉の上から汁を絞りかけはじめた。

唖然とする私達の目の前で銀のフォークとナイフで肉を切り始めた。

「あ、あの手つきは」

そう、ベットの上で動かしていた両手はまさに肉を切る様子だった。

重いフォークも気にせず祖母はみるみるうちに肉を食べてしまった。

残った皿の汁にパンをちぎってはつけておいしそうに食べていた。

何と言う・・・・

「オーナーこれは・・・どうして?」

私の質問にオーナーは少し照れたように話してくれた。
私からの依頼の後、考えて考えた、結局佐世保の米軍基地に尋ねてくれたというのだ。

古くからのレシピは今も受け継がれていて、快く教えてくれたという。

テーブルの配置もすべて昔のEMクラブの通りにしてくれたのだと。

「あ、そんな・・・ ありがとう、ありがとうございます。」

私は涙で声も出なくなっていた。

こんなにおいしそうに食事をしている祖母を見たのは初めてだった。

主人と共にレモンを絞って酸味の利いたステーキを口に入れた。

その途端、私の中の涙の栓が抜けてしまっていた。

「早く食べないと冷めるから」祖母のしっかりした言葉が何度も何度も私の心の奥に響いていた。

常連でもない私達の無理な願いに数十倍ものお返しをしてくれたオーナーシェフ。

その優しさと人柄は私の心から一生消えない思い出となった。

祖母との外食は悲しいかな、あの日が最後となってしまった。
あのレモンステーキをほおばった祖母は、あの1日のためだけにすべての力を使っていたかのように見えた。

遠い昔のEMクラブでレモンステーキを食べていた祖母があの席にいたのだと思う。

人生にはきっと何度かは奇跡ということがあるのだろう。

そして、その奇跡を与えてくれる人が存在することを私は確信している。私もいつの日か、誰かのために奇跡を与えてあげられたら・・・・

はにかんだ笑顔のオーナーシェフのように。

ありがとう。

祖母はとても幸せです。

これほどまであたたかい料理をいただいたのは初めてです。

本当にありがとう。




ぐるなびの、飲食店での感動体験を一般の方々に広く公募した、「オソトdeゴハン」感動体験エッセイコンテスト。

724作品の中から選ばれた山口美亜紀さんの、最優秀作品です。
  1. 2012/11/11(日) 11:11:11|
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バスと赤ちゃん

東京にいた今から16年程前の12月も半ば過ぎたころの話です

私は体調を壊し、週二回、中野坂上の病院に通院していました

その日は今にも雪が降り出しそうな空で、とても寒い日でした

昼近くになって、病院の診察を終えバス停からいつものようにバスに乗りました

バスは座る席はなく、私は前方の乗降口の反対側に立っていました

社内は暖房が効いていて、外の寒さを忘れるほどでした

まもなくバスは東京医科大学前に着き、そこでは多分病院からの帰りでしょう、どっと多くの人が乗りあっという間に満員になってしまいました

立ち並ぶ人の熱気と暖房とで先ほどの心地よさは一度になくなってしまいました

バスが静かに走り出したとき、後方から赤ちゃんの火のついたような泣き声が聞こえました

私には見えませんでしたが、ギュウギュウ詰めのバスと人の熱気と暖房とで、小さな赤ちゃんにとっては苦しく泣く以外方法がなかったのだと思えました

泣き叫ぶ赤ちゃんを乗せて、バスは新宿に向い走っていました

バスが次のバス停に着いた時、何人かが降り始めました

最後の人が降りる時、後方から、「待ってください 降ります」と、若い女の人の声が聞こえました

その人は立っている人の間をかきわけるように前の方に進んできます

その時、私は、子どもの泣き声がだんだん近づいて来ることで泣いた赤ちゃんを抱いているお母さんだな、とわかりました

そのお母さんが運転手さんの横まで行き、お金を払おうとしますと、運転手さんは「目的地はどこまでですか?」と聞いています

その女性は気の毒そうに小さな声で「新宿駅まで行きたいのですが、子どもが泣くので、ここで降ります」と答えました

すると運転手さんは「ここから新宿駅まで歩いてゆくのは大変です目的地まで乗っていってください」と、その女性に話しました

そして急にマイクのスイッチを入れたかと思うと「皆さん!この若いお母さんは新宿まで行くのですが赤ちゃんが泣いて、皆さんにご迷惑がかかるので、ここで降りるといっています子どもは小さい時は泣きます。赤ちゃんは泣くのが仕事です。どうぞ皆さん、少しの時間、赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せて行って下さい」と、言いました

私はどうしていいかわからず、多分皆もそうだったと思います

ほんの数秒かが過ぎた時、一人の拍手につられてバスの乗客全員の拍手が返事となったのです

若いお母さんは何度も何度も頭を下げていました

今でもこの光景を思い出しますと、目頭が熱くなり、ジーンときます

私のとても大切な、心にしみる思い出です




というココロ暖まる話しを教えていただいたので紹介しました

多分、小さいお子さんを持つお母さんならきっと一度は同じ思いをしていると思います

優しい気持ちになれました
  1. 2012/10/20(土) 00:01:51|
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大輝くんのクジラ




東京ディズニーランドのそばにあるシェラトン・グランデ・トーキョーベイホテル。

その屋上に、クジラの絵が描かれているのをご存知ですか?




沖縄の少年・石川大輝くんは4人兄弟の末っ子で、当時は小学校2年生。

「家族全員でディズニーランドに行きたい!」という大輝くんの夢でした。

しかし大輝くんが抱えていた病気は、神経芽細胞腫という交感神経にできる小児がんのひとつでした。

5歳で発病し、それからは入退院を繰り返していました。




たまたまボランティアさんの中に、このシェラトンのホテルの重役さんと知り合いの方がいて、夢の実現のために協力をお願いしたところ、宿泊料を無料にしてくれたのでした。

しかも、当日はホテルの前で大勢のホテルマンが一家をお出迎え。

部屋にはボランティアさんとホテル従業員の手によって、にぎやかに飾り付けがほどこされていました。

ディズニーランドをめいっぱい満喫して、3日目の朝。

ホテルが用意してくれたリムジンの到着をロビーで待っているときのことでした。

大輝くんは、こう言いました。

「大人になったら、シェラトンホテルの社長になる」

大輝くんは「シェラトンホテルの社長になって、たくさんの子どもたちを泊めてあげたい」と話していたそうです。




シェラトンからメイク・ア・ウィッシュに電話がかかってきたのは、1年後のことです。

「一般の人から総支配人を任命して、1日社長をやってもらうというプログラムをつくったのですが、その第1号を、ぜひ大輝くんにお願いしたいんです」

羽田空港に迎えにやってきたのはピカピカの社長専用車。

ホテルに着けば、社員の方々がズラリと並んで待ち構えています。

ホテルがこの日のためにわざわざ仕立てた小さなスーツに着替えると任命式、続いて重役会議。

ジャケットを羽織った大輝くんは、すでにカチンコチンに緊張しているようでした。

「社長、なにかご提案を」

重役会議ではホテルに対して提案をしてくださいと、あらかじめ大輝くんには伝えられていました。

「飛行機の窓からシェラトンが見えたんだけど、飛行機からシェラトンホテルってわかるように、屋上に絵を描くといいと思う。子供が喜ぶような…夏ならクジラ、冬なら雪だるまの絵」




大輝くんの発言に、「そういう発想があったか」

「とてもいいアイデアだ」と、会議室は一気に沸き立ちました。

2001年の7月。

それは体感温度が40度を超えた、とてもとても暑い日のことでした。

テレビを観ていたら、偶然、そのニュースが流れたのです。

「シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルの屋上に、従業員によって体長20メートルのクジラの絵が描かれました」

たくさんの人々がペンキで色を塗り、照りつける太陽の陽を浴びながら、こぼれる汗を拭い、休むことのない数々の手…

もちろん、大輝くんのもとにもクジラの絵が実現したことは伝えられていました。

「絶対に見に来てね」と、宿泊券つきで。

「元気になったら行く」

そう言ったまま、クジラの絵が完成して3ヶ月後、大輝くんは絵を見ぬまま、11歳の若さでこの世を去りました。




その後、この大輝くんのクジラの絵のことは、『大輝くんのクジラ』という絵本になりました。




メイク・ア・ウィッシュは、「難病の子供の夢をかなえる」ことを唯一の目的とした国際的なボランティア団体です。

その中の活動により実現した話しの一つを紹介しました。
  1. 2012/10/17(水) 23:27:11|
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間違いを認める

高校生の時は、新聞配達のほかにも、いろんなアルバイトをやった。

西銀座のデパートで、窓と床とお便所をきれいにして、1日340円。

封筒のあて名書きをやって、1日240円。錆付いた鉄板を磨く仕事が一番高くて、1日400円。

賄いを目当てに飲食店の出前のバイトもやった。




ある日、自転車に乗って出前をして、店に帰る途中、新宿の交差点で信号待ちしてたらさ、「おまえ、何しやがんだ!」って、おじさんが顔を真っ赤にして、ボクに近づいてきたんだよ。

「何って、なんなんですか?」

「なんなんですかじゃねぇだろう。ココを見てみろ!」

おじさんの車に横線が入っていたの。

ピッカピカの新車に長いひっかき傷が1本。

ボク知らないうちに、自転車の荷台に載っているアルミ箱の角かなんかで、ひっかいちゃったみたいで…。

「お前が働いてる店はどこだ。店の名前を言え!」

「言わないよ。ボク」

「言わないじゃないだろ、言えよ!すぐに店に連絡しろ!」





店、店の名前って言うから、ボクは言ったんだ。

「おじさん、ボクはアルバイトなの。1日230円。店のオヤジさん、いい人だから、ボクのかわりに払ってくれると思うけど、小さな店だし、そんな大金払ったら、大変なことになっちゃうよ。おカミさん、泣いちゃうよ。だから、店の名前は言えない」




「おまえのウチは?」

「ウチにお金がないからアルバイトをしてるの。おじさん、むちゃなこと言わないでよ。ウチの親から取ろうとしてるんでしょ。親が困らないようにボクがアルバイトしてるのに」




インチキはダメだ。

絶対に逃げないぞ、とボクは思った。




「おじさん、ボクをおじさんの会社まで連れて行って、その分だけ、働かせるのが一番いい方法だと思うんだよ。どれだけでも働くから。おじさんの車のあとを自転車で追いかけてついて行くからさ」




そしたらさ、おじさんが急に。

「君の言っていることが正しいな。ボクの言っていることが間違ってた」って。

「オレもキミみたいにアルバイトして、頑張った頃があって、今、車を買えるようになったんだ。そのことを思い出した。学校を卒業したら、オレの会社においで。ごめんな…」



おじさん、涙をためて「さよなら」って、名刺を1枚残して去って行ったの。

ボク、おじさんの背中を見ながら、泣いたよ。

ボロボロ泣いたよ。




ところがさ、ボク貰った名刺をなくしちゃって。

いつか恩返ししようと思ってたのに、なくしちゃって。

オレって、どう言う人間なんだろうかと自分を疑っちゃったよ。

それでテレビに出られるようになってから、いろんな番組でその話をして、活字でも言い続けたんだけど、おじさんからの連絡はなし。




昭和62年になって、ボクがテレビをやめようとしたときになって、やっと手紙が来たんだ。

「テレビや雑誌であなたが私のことを言ってくれていることは知っていました。でもあなたが懸命に働いている時に、名乗り出るのはイヤでした。あなたがお休みすると聞いたので手紙を書きました。ゆっくり休んでください」




すっごいでかい会社の社長さんだった。

「ボクが間違っていた」と言える人ってカッコいい。

そういうカッコいい人って、社長になっちゃうんだよね。


萩本欣一




という欽ちゃんの話しです。

欽ちゃんの言う通り、間違いを認めて謝れる大人、それが例え相手が子供であっても。

自分もそんな人でありたいです。
  1. 2012/10/16(火) 02:41:06|
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38度線のマリア

生涯で133人もの孤児を育てたことから、「38度線のマリア」と呼ばれた日本人女性のお話です。




1927年(昭和2年)、東京の杉並に生まれた永松カズさんは、父親の顔を知らないまま、4歳で母と満州へ。

2年後、愛する母親を亡くし、わずか6歳でまさに天涯孤独の身に。

農奴として転売されながら、満州の荒野を放浪。

終戦を迎え、いったんは日本へ帰るが、身寄りも無いうえに焦土と化した祖国に絶望し、育った満州に思いを募らせた彼女は、3年後に再び日本から半島に渡ったが、北緯38度線を越えることが出来ず、ソウルに留まる。




間も無くして朝鮮戦争が勃発し、その最中に胸を撃たれて銃弾に倒れた女性の胸に抱かれて血まみれになっていた男の子を助けたことをきっかけに、孤児達を自分の腕一つで助けていくことを決意した。




戦争の終結に伴い、ソウル市内にバラックを建て、孤立無援のまま肉体労働を重ね、露天で理髪業を営んだほか、軍手作りや豆炭売り、時には売血をして孤児達を育て続けた。

いつも30数人の孤児の世話をして、生涯で133人の戦災孤児を育てました。

一人の子供を育てるだけで大変なことです。

それを女手ひとつで、なかなか出来ることではありません。

やがて彼女はソウルの人々の間で「愛の理髪師」と呼ばれるようになり、韓国内にも日本にも支援者が増えていきました。




1971年に、朴正煕大統領から韓国名誉勲章が授与された。

名誉勲章叙勲式の際には、大統領府に普段着に下駄履き姿で現れ、慌てた職員から靴だけでも履き替えるように申し出られたところ、「私は他に何も持っていません。これでだめなら帰ります」と断固として拒否し、そのまま叙勲式に臨んだというエピソードがあります。




「転んでも転んでもダルマの如く立ち上がれ」の言葉が子供達への口癖。

卑屈な生き方を嫌い、甘えを許さなかったカズは、ダルマの親子の絵を描いて壁に貼っていた。

その精神は日本人としての誇りでした。

生涯日本人としてのアイデンティティを守り続け、反日感情の強かった当時の韓国においても、普段から和服とモンペ姿で通し、端午の節句には遠慮なしに鯉のぼりを立てていたそうです。

長年重労働を続けていたことから、次第に体調を崩すようになり、56歳の若さで亡くなりました。




「温室の花の如く育てず、いかなる暴風雨でも耐え得る根の深い木に成長させようとされた」。

残された子どもの一人は、葬儀で涙ながらに手紙を読み上げたそうです。




という話しです
戦後の混乱期に単身、国外で献身的に活動されていた女性がいたなんて知りませんでした。こういった方の話しがもっと広まればいいですよね。
  1. 2012/10/04(木) 13:39:57|
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