泣けるまぁちゃんねる

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自分をえらんで生まれてきたよ

雲の上から、お姉さんとお兄さんを見て、「どの人がやさしいかなあ」って、見ていた。

それで、ママのところにした。

ママなら、心のことをわかってくれると思ったら。




生まれる前、ぼくはすごく強い赤ちゃん忍者で、しゅりけんで、51人やっつけて、「もうママは、だいじょうぶ」って思ってから、おなかの中に入った。

ママのこと、かかしみたいに、守っていた。

ぼくは、ママを守っているんだよ、いまも。




赤ちゃんが病気のときは、「苦もあれば、後から楽もある」ということを、神さまが、伝えてくれている。

だから、心配しなくていい。

赤ちゃんが生まれたおうちには、必ず、楽がある。

というか、生きているものには、必ず、楽がある。




赤ちゃんは、どのお母さんにするか、どんな体にするか、どんな性格になるか、自分で決めて生まれてくるのが、ふつうだよ。

僕が病気で生まれたのは、病気で生まれる子や、お母さんちを、励ますためだ。

だから、ママは、ぼくの言葉を、みんなに教えていい。

ぼくは、病気だったから、幸せなんだ。

ぼくは、病気だったから、心の言葉が話せるんだ。

だから、いつか、心の幸せを配るサンタさんになるんだ。




ぼくがかわいいのは、ママがぼくを守るためだよ。

ぼく、かわいがられるために、生まれてきたんだよ。

ママは、かわいがってくれると思ったから。




人は必ず、喜びをもっている。

たとえば、生きる喜び。悲しめる喜び。

じつは、悲しめるというのは、幸せなことなんだよ。

いろいろな気持ちは、ぜんぶ幸せなんだ。

悲しめる喜びというのは、悲しんだ後、またハッピーになるでしょ。

そのハッピーは、前のハッピーより、もっと大きいハッピーになる。

だから、悲しみって、たいせつなんだよ。




人は、みんなにいいことをするために、生きている。

それを、「自分の仕事」という。

みんなのために働かないと、仕事とは呼ばない。

「自分の仕事」がなければ、生きていけない。




といく印鑰理生(いんやくりお)君のお話しです 。

お母さんは、りお君の事を「ちょっぴり個性的な心臓と肺をもって、この世に生まれてきた」と言います。

この詩は、りお君の小さい頃からのおしゃべりを、お母さんがまとめたものだそうです。

人は、みんな「自分」を選んで生まれてきた。

いいことをするために生きている。

ステキな話しですね
  1. 2012/11/22(木) 12:57:26|
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親不孝丼

「お帰り!今日はどうする?」

私が中学3年の頃毎週土曜日の出来事でした




札付きのワルだった私は、ダボダボのズボンにパンチパーマ

さらしを巻いて地元の商店街を肩で風を切りながら歩いておりました

そして、商店街の中心にある母が勤めていたお蕎麦屋さんに毎週土曜日カツ丼を食べに行くのが日課になっておりました

まるで常識を知らない私は入口の引き戸をガラガラと開け、ドン!とイスにふんぞり返ると思ったらまだ14歳のくせにシュッとたばこに火をつけフゥーッと一服する。。。

そして毎回母が笑顔で「今日は何を食べる?」と聞く

私は母の顔も見ないで「カツ丼」とひと言答え、煙草を吸いながら漫画を読む。。。

こんな出来事が毎週土曜日繰り返されておりました




地元では悪名高い私

商店街を歩いているだけで、みんなにジロジロと見られ避けて通られる

地元で後輩に会えば私の影が見えなくなるまで大きな声で「こんにちは!こんにちは!」と挨拶を繰り返しその声の大きさにビックリして小さい子が泣く始末。。。

私に触る人間がいたら切り裂いてやる!くらいの気持ちでいつも体から殺気を出しておりました

そんな私ですが、唯一楽しみだったのが母の働く『大村庵』のカツ丼です

毎週、何があっても必ずカツ丼を食べに行っておりました

ですが今になってわかります

そのときの母の苦しさを。。。

私が店に行くだけで大迷惑なはず

煙草を吹かし、店のオーナーに挨拶もしない

まるで母の立場を考えていなかった私でした

ですが、母はいつも笑顔でした

そんな非常識な私に対して笑顔でした




ある日の土曜日

いつものように『大村庵』にカツ丼を食べに行きました

するといつも笑顔で近寄ってくる母の姿が見えません

代わりに店の奥さんが私のそばに来て「お母さん、今日は休んでもらったよ」と言いました

私が「なら、帰る。。。」と言って店を出ようとしたら「ちょっと待ちなさい!カツ丼食べていきな!」

店の奥さんに呼び戻され、私はしぶしぶ席に着きました

すると、奥さんが私に言いました

「今日は私が無理矢理お母さんを休ませたんだよ!あんたに話があってね!」

そう言うと、1枚の写真を持ってきました




写っていたのは10歳の頃の私。。。

子猫を3匹抱きかかえ子どもらしく自然な笑顔でした。。。

奥さんは言いました

「お母さんはね、いつもこの写真を見ては私たちに言ってるんだよ!この子は虫も殺せないくらい優しい子なんです。そしてこの頃は毎週日曜日になるとみんなに朝ご飯でチャーハンを作ってくれるんです。それが私は楽しみで。。。」

そうです

私の幼い頃の夢は料理人になること

毎週日曜の朝は母に初めて教えてもらったチャーハンを作るのが楽しみで家族みんなで朝ご飯として食べておりました




「あんたね、毎週来て煙草を吸ってカツ丼食べて無言で帰ってお母さんがその後どんな気持ちかわかる?私たちに何度も頭を下げて『あの子は本当は優しい子なんです』って。。。それにね、あんたが来た日はお母さんは賄いを食べないで帰るんだよ!週に3回3時間くらいしか働けないのにあんたがカツ丼食べたら1時間分の時給がなくなるんだよ。お母さんは自分の賄いの分を毎週あんたの昼ご飯に回しているんだよ!」

「いつまでも親に迷惑や心配をかけて、ヘンな格好で町を歩き回って恥ずかしくないのかい!!!」

私は何も言えませんでした。。。

「今日はあんたの誕生日を祝うってお母さん言ってたけど、もうすぐ誕生日なんだろ?あんたが帰ってきても帰ってこなくても、あんたが好きな鶏の唐揚げとポテトサラダを作って待ってるって言ってたよ!ちゃんと帰るんだよ!」




14歳の冬の出来事です。。。

何の気なしに希望した調理学校への進学

お金もたくさんかかります

そのために母は働き、自分勝手な私は母の賄いまで取り上げ我が物顔で母の職場に来ては非常識な態度を繰り返していたのです

私は母の作る鶏の唐揚げが大好きでした

でもその頃はろくに家にも帰っていなかったので「自分は母が作る鶏の唐揚げが大好きなんだ!」ということすら完全に忘れていました

ですが奥さんのひと言で完全に忘れていた鶏の唐揚げの味をハッキリと思い出し、同時にその頃の楽しかった思い出が走馬燈のようによみがえりました

そして急に私の目から涙が溢れ出し止まらなくなりました。。。

1年前なら何も感じなかった私ですがもうすぐ15歳になる私は奥さんの言葉が心に響いたのです

奥さんも泣いておりました。。。

奥さんが語ってくれた言葉が私に気づかせてくれたのです

そして私の涙は心のしずくとなり、私自身の乾き切っていた心に潤いを与えてくれました




その後、奥さんは無言で調理場に戻り「私からの誕生日プレゼントだよ、食べな」

そう言うと大盛りのカツ丼を私に食べさせてくれました

その日、私は決めました

母の目を見て話せるようになるまで、母に恩返しができる日までカツ丼は食べないと。。。

1984年の出来事です

私は料理人の道を選び23年後、38歳になりました

そろそろ親不孝丼の封印を解いてもよい時期がやってきたようです

ですが、料理人になった今でも母の作る鶏の唐揚げの味を超えることはできません

いや。。。

一生超えることはできないでしょう




感涙食堂での下村さんの話しです
  1. 2012/11/15(木) 09:24:08|
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奇跡のレストラン

特別養護老人ホームに入居して5年目を迎える祖母の、初めての大きなワガママだった。

「レストランでレモンステーキを食べたい」。

かなり重度の認知症を患い、下半身も車椅子生活の祖母の言葉に、私はとても驚いてしまった。

果たして本当にそう要求しているのだろうか、それともたまたま口から出た思いつきの言葉なのだろうか。

不幸にも私は両親を既に亡くしていて真意を確認する方法はなかった。

4歳上の兄が遠い北海道にいることはいるが、そんな言葉に取り合ってくれるのかという不安があった。

久し振りの電話の向こうの兄は意外にも真面目な口調だった。

「本気なんじゃないの?ばあちゃんは昔、ベースのEMクラブで働いていたらしいから、きっとその頃に戻っているんじゃないかい?」

初めて聞いた祖母の職歴に私は少し動揺していた。

「ベースの・・・・・?」

そう、確かに私を含めて祖母も出身は長崎県の佐世保市。

米軍基地でにぎわう街。

基地のことはみな「ベース」と呼び、その中にある将校クラブは確かにEMクラブと言っていた気がする。

幼い私も両親に連れられてステーキだのハンバーグだのを食べさせてもらっていた。

でも、祖母がその店に働きに行っていたなんてことはまったく知らなかった。

しかし、そう言われて思い返してみると祖母は私達のおやつ代わりに「ホットドック」や「ピザ」をよく作ってくれていた。

私は今まで、単に佐世保の人間は街角でもどこでもホットドックを食べるのが当たり前だと思っていた。

しかしよく考えてみると、家庭でそれを作ってくれていたのは少々不思議なことであって、気づかないのがおかしいくらいだ、何と言っても昭和40年代後半のことなのだから・・・

じゃあ、きっと祖母がレストランに行きたいというのは本心なのだ。

記憶がまだらになっていて現在のことは何一つわからないのに、遠い昔の話はとてもよく憶えていたりする。

認知症独特な症状なのだろうけど。
2007年、夏前頃から急に弱り出した祖母、その口から「レモンステーキ」が出る回数が増え出したのも事実・・・。

佐世保に連れて行くべきなのだろうか。

主治医に遠出の件をそれとなく話したら、「生命を削るかもしれない」と、重い言葉が返ってきた。

最近は食も細くなって、おかゆも数口しか食べなくなっていた。

「レモンステーキ・・・・か」。

主人に話をして、どうにかならないかと考えてみた。

「『H』に相談してみるかい?」

その店は私達家族がよく行く街の洋食屋。

夫婦でやっている店で、オムライスやハンバーグランチがおいしくって娘たちにも人気の小さな店のこと。

「レモンステーキですか?」

オーナーシェフは深く考えこんでしまった。

長い私の話を聞いてくれ、腕を組みかえながら「しばらく考えさせてくれませんか?」と言われた。

その頃の私は半ばあきらめかけていた。

祖母もベッドの上での生活が1日の大半を占めるようになっていた。

そばで白髪をなでつけてあげていると薄い布団から両手を宙に出し、眼で追いながら両手を動かし、何かを言いかける。

宙で編み物でもしているかのように両手を交互に動かしていた。

口は相変わらずモゴモゴと。

一体何を・・・・?動作の意味がわからないまま日数だけが経っていった。

家で『H』のオーナーからの電話を受けた主人が明るい声で私に叫んだ。

「レモンステーキ!作ってくれるらしいよ!」

それは3日後のお昼に3名様のお席を用意できます。

という嬉しい電話だった。

日曜日の忙しいときなのに奥側のゆったりしたスペースを私達のために空けてくれたオーナーに感謝しながら、車椅子を押して入って行った。

「予約席」と記された広いテーブルには、白いテーブルクロスがかけてあり、真白い皿を中央に、その左右には銀色のフォークとナイフが数本ずつ並べてあった。

足の長いグラスとともに、この店は普段、お箸で食べられる洋食屋なのに・・・。

それに祖母は両手が上手く使えない、そう思ったときだった。

祖母が両手でフォークとナイフを取り、嬉しそうに笑ったのだった。

折りたたんであった布ナプキンも広げて胸元に挟み込んで。


「お待たせいたしました、レモンステーキです」

オーナーみずから運んでくれた熱い鉄皿の上には、薄切りの牛肉がバターの香りに包まれてジュウジュウと音を立てていた。

かたわらにクシ型に切られたレモンが添えられて。

祖母はサッとレモンを手に取ると肉の上から汁を絞りかけはじめた。

唖然とする私達の目の前で銀のフォークとナイフで肉を切り始めた。

「あ、あの手つきは」

そう、ベットの上で動かしていた両手はまさに肉を切る様子だった。

重いフォークも気にせず祖母はみるみるうちに肉を食べてしまった。

残った皿の汁にパンをちぎってはつけておいしそうに食べていた。

何と言う・・・・

「オーナーこれは・・・どうして?」

私の質問にオーナーは少し照れたように話してくれた。
私からの依頼の後、考えて考えた、結局佐世保の米軍基地に尋ねてくれたというのだ。

古くからのレシピは今も受け継がれていて、快く教えてくれたという。

テーブルの配置もすべて昔のEMクラブの通りにしてくれたのだと。

「あ、そんな・・・ ありがとう、ありがとうございます。」

私は涙で声も出なくなっていた。

こんなにおいしそうに食事をしている祖母を見たのは初めてだった。

主人と共にレモンを絞って酸味の利いたステーキを口に入れた。

その途端、私の中の涙の栓が抜けてしまっていた。

「早く食べないと冷めるから」祖母のしっかりした言葉が何度も何度も私の心の奥に響いていた。

常連でもない私達の無理な願いに数十倍ものお返しをしてくれたオーナーシェフ。

その優しさと人柄は私の心から一生消えない思い出となった。

祖母との外食は悲しいかな、あの日が最後となってしまった。
あのレモンステーキをほおばった祖母は、あの1日のためだけにすべての力を使っていたかのように見えた。

遠い昔のEMクラブでレモンステーキを食べていた祖母があの席にいたのだと思う。

人生にはきっと何度かは奇跡ということがあるのだろう。

そして、その奇跡を与えてくれる人が存在することを私は確信している。私もいつの日か、誰かのために奇跡を与えてあげられたら・・・・

はにかんだ笑顔のオーナーシェフのように。

ありがとう。

祖母はとても幸せです。

これほどまであたたかい料理をいただいたのは初めてです。

本当にありがとう。




ぐるなびの、飲食店での感動体験を一般の方々に広く公募した、「オソトdeゴハン」感動体験エッセイコンテスト。

724作品の中から選ばれた山口美亜紀さんの、最優秀作品です。
  1. 2012/11/11(日) 11:11:11|
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バスと赤ちゃん

東京にいた今から16年程前の12月も半ば過ぎたころの話です

私は体調を壊し、週二回、中野坂上の病院に通院していました

その日は今にも雪が降り出しそうな空で、とても寒い日でした

昼近くになって、病院の診察を終えバス停からいつものようにバスに乗りました

バスは座る席はなく、私は前方の乗降口の反対側に立っていました

社内は暖房が効いていて、外の寒さを忘れるほどでした

まもなくバスは東京医科大学前に着き、そこでは多分病院からの帰りでしょう、どっと多くの人が乗りあっという間に満員になってしまいました

立ち並ぶ人の熱気と暖房とで先ほどの心地よさは一度になくなってしまいました

バスが静かに走り出したとき、後方から赤ちゃんの火のついたような泣き声が聞こえました

私には見えませんでしたが、ギュウギュウ詰めのバスと人の熱気と暖房とで、小さな赤ちゃんにとっては苦しく泣く以外方法がなかったのだと思えました

泣き叫ぶ赤ちゃんを乗せて、バスは新宿に向い走っていました

バスが次のバス停に着いた時、何人かが降り始めました

最後の人が降りる時、後方から、「待ってください 降ります」と、若い女の人の声が聞こえました

その人は立っている人の間をかきわけるように前の方に進んできます

その時、私は、子どもの泣き声がだんだん近づいて来ることで泣いた赤ちゃんを抱いているお母さんだな、とわかりました

そのお母さんが運転手さんの横まで行き、お金を払おうとしますと、運転手さんは「目的地はどこまでですか?」と聞いています

その女性は気の毒そうに小さな声で「新宿駅まで行きたいのですが、子どもが泣くので、ここで降ります」と答えました

すると運転手さんは「ここから新宿駅まで歩いてゆくのは大変です目的地まで乗っていってください」と、その女性に話しました

そして急にマイクのスイッチを入れたかと思うと「皆さん!この若いお母さんは新宿まで行くのですが赤ちゃんが泣いて、皆さんにご迷惑がかかるので、ここで降りるといっています子どもは小さい時は泣きます。赤ちゃんは泣くのが仕事です。どうぞ皆さん、少しの時間、赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せて行って下さい」と、言いました

私はどうしていいかわからず、多分皆もそうだったと思います

ほんの数秒かが過ぎた時、一人の拍手につられてバスの乗客全員の拍手が返事となったのです

若いお母さんは何度も何度も頭を下げていました

今でもこの光景を思い出しますと、目頭が熱くなり、ジーンときます

私のとても大切な、心にしみる思い出です




というココロ暖まる話しを教えていただいたので紹介しました

多分、小さいお子さんを持つお母さんならきっと一度は同じ思いをしていると思います

優しい気持ちになれました
  1. 2012/10/20(土) 00:01:51|
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大輝くんのクジラ




東京ディズニーランドのそばにあるシェラトン・グランデ・トーキョーベイホテル。

その屋上に、クジラの絵が描かれているのをご存知ですか?




沖縄の少年・石川大輝くんは4人兄弟の末っ子で、当時は小学校2年生。

「家族全員でディズニーランドに行きたい!」という大輝くんの夢でした。

しかし大輝くんが抱えていた病気は、神経芽細胞腫という交感神経にできる小児がんのひとつでした。

5歳で発病し、それからは入退院を繰り返していました。




たまたまボランティアさんの中に、このシェラトンのホテルの重役さんと知り合いの方がいて、夢の実現のために協力をお願いしたところ、宿泊料を無料にしてくれたのでした。

しかも、当日はホテルの前で大勢のホテルマンが一家をお出迎え。

部屋にはボランティアさんとホテル従業員の手によって、にぎやかに飾り付けがほどこされていました。

ディズニーランドをめいっぱい満喫して、3日目の朝。

ホテルが用意してくれたリムジンの到着をロビーで待っているときのことでした。

大輝くんは、こう言いました。

「大人になったら、シェラトンホテルの社長になる」

大輝くんは「シェラトンホテルの社長になって、たくさんの子どもたちを泊めてあげたい」と話していたそうです。




シェラトンからメイク・ア・ウィッシュに電話がかかってきたのは、1年後のことです。

「一般の人から総支配人を任命して、1日社長をやってもらうというプログラムをつくったのですが、その第1号を、ぜひ大輝くんにお願いしたいんです」

羽田空港に迎えにやってきたのはピカピカの社長専用車。

ホテルに着けば、社員の方々がズラリと並んで待ち構えています。

ホテルがこの日のためにわざわざ仕立てた小さなスーツに着替えると任命式、続いて重役会議。

ジャケットを羽織った大輝くんは、すでにカチンコチンに緊張しているようでした。

「社長、なにかご提案を」

重役会議ではホテルに対して提案をしてくださいと、あらかじめ大輝くんには伝えられていました。

「飛行機の窓からシェラトンが見えたんだけど、飛行機からシェラトンホテルってわかるように、屋上に絵を描くといいと思う。子供が喜ぶような…夏ならクジラ、冬なら雪だるまの絵」




大輝くんの発言に、「そういう発想があったか」

「とてもいいアイデアだ」と、会議室は一気に沸き立ちました。

2001年の7月。

それは体感温度が40度を超えた、とてもとても暑い日のことでした。

テレビを観ていたら、偶然、そのニュースが流れたのです。

「シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルの屋上に、従業員によって体長20メートルのクジラの絵が描かれました」

たくさんの人々がペンキで色を塗り、照りつける太陽の陽を浴びながら、こぼれる汗を拭い、休むことのない数々の手…

もちろん、大輝くんのもとにもクジラの絵が実現したことは伝えられていました。

「絶対に見に来てね」と、宿泊券つきで。

「元気になったら行く」

そう言ったまま、クジラの絵が完成して3ヶ月後、大輝くんは絵を見ぬまま、11歳の若さでこの世を去りました。




その後、この大輝くんのクジラの絵のことは、『大輝くんのクジラ』という絵本になりました。




メイク・ア・ウィッシュは、「難病の子供の夢をかなえる」ことを唯一の目的とした国際的なボランティア団体です。

その中の活動により実現した話しの一つを紹介しました。
  1. 2012/10/17(水) 23:27:11|
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間違いを認める

高校生の時は、新聞配達のほかにも、いろんなアルバイトをやった。

西銀座のデパートで、窓と床とお便所をきれいにして、1日340円。

封筒のあて名書きをやって、1日240円。錆付いた鉄板を磨く仕事が一番高くて、1日400円。

賄いを目当てに飲食店の出前のバイトもやった。




ある日、自転車に乗って出前をして、店に帰る途中、新宿の交差点で信号待ちしてたらさ、「おまえ、何しやがんだ!」って、おじさんが顔を真っ赤にして、ボクに近づいてきたんだよ。

「何って、なんなんですか?」

「なんなんですかじゃねぇだろう。ココを見てみろ!」

おじさんの車に横線が入っていたの。

ピッカピカの新車に長いひっかき傷が1本。

ボク知らないうちに、自転車の荷台に載っているアルミ箱の角かなんかで、ひっかいちゃったみたいで…。

「お前が働いてる店はどこだ。店の名前を言え!」

「言わないよ。ボク」

「言わないじゃないだろ、言えよ!すぐに店に連絡しろ!」





店、店の名前って言うから、ボクは言ったんだ。

「おじさん、ボクはアルバイトなの。1日230円。店のオヤジさん、いい人だから、ボクのかわりに払ってくれると思うけど、小さな店だし、そんな大金払ったら、大変なことになっちゃうよ。おカミさん、泣いちゃうよ。だから、店の名前は言えない」




「おまえのウチは?」

「ウチにお金がないからアルバイトをしてるの。おじさん、むちゃなこと言わないでよ。ウチの親から取ろうとしてるんでしょ。親が困らないようにボクがアルバイトしてるのに」




インチキはダメだ。

絶対に逃げないぞ、とボクは思った。




「おじさん、ボクをおじさんの会社まで連れて行って、その分だけ、働かせるのが一番いい方法だと思うんだよ。どれだけでも働くから。おじさんの車のあとを自転車で追いかけてついて行くからさ」




そしたらさ、おじさんが急に。

「君の言っていることが正しいな。ボクの言っていることが間違ってた」って。

「オレもキミみたいにアルバイトして、頑張った頃があって、今、車を買えるようになったんだ。そのことを思い出した。学校を卒業したら、オレの会社においで。ごめんな…」



おじさん、涙をためて「さよなら」って、名刺を1枚残して去って行ったの。

ボク、おじさんの背中を見ながら、泣いたよ。

ボロボロ泣いたよ。




ところがさ、ボク貰った名刺をなくしちゃって。

いつか恩返ししようと思ってたのに、なくしちゃって。

オレって、どう言う人間なんだろうかと自分を疑っちゃったよ。

それでテレビに出られるようになってから、いろんな番組でその話をして、活字でも言い続けたんだけど、おじさんからの連絡はなし。




昭和62年になって、ボクがテレビをやめようとしたときになって、やっと手紙が来たんだ。

「テレビや雑誌であなたが私のことを言ってくれていることは知っていました。でもあなたが懸命に働いている時に、名乗り出るのはイヤでした。あなたがお休みすると聞いたので手紙を書きました。ゆっくり休んでください」




すっごいでかい会社の社長さんだった。

「ボクが間違っていた」と言える人ってカッコいい。

そういうカッコいい人って、社長になっちゃうんだよね。


萩本欣一




という欽ちゃんの話しです。

欽ちゃんの言う通り、間違いを認めて謝れる大人、それが例え相手が子供であっても。

自分もそんな人でありたいです。
  1. 2012/10/16(火) 02:41:06|
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38度線のマリア

生涯で133人もの孤児を育てたことから、「38度線のマリア」と呼ばれた日本人女性のお話です。




1927年(昭和2年)、東京の杉並に生まれた永松カズさんは、父親の顔を知らないまま、4歳で母と満州へ。

2年後、愛する母親を亡くし、わずか6歳でまさに天涯孤独の身に。

農奴として転売されながら、満州の荒野を放浪。

終戦を迎え、いったんは日本へ帰るが、身寄りも無いうえに焦土と化した祖国に絶望し、育った満州に思いを募らせた彼女は、3年後に再び日本から半島に渡ったが、北緯38度線を越えることが出来ず、ソウルに留まる。




間も無くして朝鮮戦争が勃発し、その最中に胸を撃たれて銃弾に倒れた女性の胸に抱かれて血まみれになっていた男の子を助けたことをきっかけに、孤児達を自分の腕一つで助けていくことを決意した。




戦争の終結に伴い、ソウル市内にバラックを建て、孤立無援のまま肉体労働を重ね、露天で理髪業を営んだほか、軍手作りや豆炭売り、時には売血をして孤児達を育て続けた。

いつも30数人の孤児の世話をして、生涯で133人の戦災孤児を育てました。

一人の子供を育てるだけで大変なことです。

それを女手ひとつで、なかなか出来ることではありません。

やがて彼女はソウルの人々の間で「愛の理髪師」と呼ばれるようになり、韓国内にも日本にも支援者が増えていきました。




1971年に、朴正煕大統領から韓国名誉勲章が授与された。

名誉勲章叙勲式の際には、大統領府に普段着に下駄履き姿で現れ、慌てた職員から靴だけでも履き替えるように申し出られたところ、「私は他に何も持っていません。これでだめなら帰ります」と断固として拒否し、そのまま叙勲式に臨んだというエピソードがあります。




「転んでも転んでもダルマの如く立ち上がれ」の言葉が子供達への口癖。

卑屈な生き方を嫌い、甘えを許さなかったカズは、ダルマの親子の絵を描いて壁に貼っていた。

その精神は日本人としての誇りでした。

生涯日本人としてのアイデンティティを守り続け、反日感情の強かった当時の韓国においても、普段から和服とモンペ姿で通し、端午の節句には遠慮なしに鯉のぼりを立てていたそうです。

長年重労働を続けていたことから、次第に体調を崩すようになり、56歳の若さで亡くなりました。




「温室の花の如く育てず、いかなる暴風雨でも耐え得る根の深い木に成長させようとされた」。

残された子どもの一人は、葬儀で涙ながらに手紙を読み上げたそうです。




という話しです
戦後の混乱期に単身、国外で献身的に活動されていた女性がいたなんて知りませんでした。こういった方の話しがもっと広まればいいですよね。
  1. 2012/10/04(木) 13:39:57|
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バスジャック事件が教えたもの

以前世間を騒がせた17歳の少年によるバスジャック事件。

そのバスに同乗していた山口さんという方は、加害者の少年によって刺し傷を負われました。

しかし山口さんは、この事件を教訓に子供たちが加害者にならないための活動をはじめました。

その話しを紹介します。




「バスジャック事件が教えたもの」


山口由美子(不登校を考える親の会「ほっとケーキ」代表)


2000年のゴールデンウイークの5月3日、私は塚本達子先生と一緒にバスに乗っていました。

塚本先生は佐賀市内で幼児教育の教室を主宰され、我が家の子どもたちがお世話になった先生です。

子どもたちは小学校に入る時点で先生の教室は卒業しましたが、人生に関する多くを学ばせていただいた私自身が先生から卒業できず、交流を続けていました。

この日は一緒に福岡にクラシックのコンサートを聴きにいく予定でした。

バスが高速に入ってしばらくすると、一番前の座席に座っていた少年が突然立ち上がり、牛刀を振りかざしてこう言いました。




「このバスを乗っ取る。 全員荷物を置いて後ろへ下がれ」

最初、私はこの少年が本気でバスを乗っ取ろうとしているとは思いませんでした。

声にすごみはなく、まだ中学生くらいのあどけない少年だったからです。

「何を言っているんでしょうね」

という感じで先生を見たら、意外にも大変驚いた様子で固まっていらっしゃいました。

多くの子どもたちと接し、度胸もあって信仰心も篤い先生は、こんなことでたじろぐような方ではないのに…。

乗客は少年の言うことに従い、後部座席へ移動しました。

その時、1人だけ眠っていて事態に気づいていない方がいました。

「おまえは俺の言うことを聞いていない!」

少年は逆上し、その人の首を刺したのです。

その時初めてこの子は本気なのだと気づきました。

しばらくすると、乗客の1人が「トイレに行きたい」と言い出し、少年はそれに応じて、バスは道路の路肩に止まりました。

その方は1人で降りていかれましたが、おそらく通報されたのでしょう、バスの前に乗用車が何台か止まり始めました。




気づいた少年はさらに逆上し、「あいつは裏切った。これは連帯責任です」

と言いながら、一番近くに座っていた私の顔を牛刀で切りつけました。

とっさに両手で顔を覆うと、今度は手を切られ、次は首、次は…。

何か所刺されたかは分かりません。

あちこちを切りつけられ、私は通路へ転がり落ちてしまいました。

しかし、その時私はこう思ったのです。

ああ、彼の心は、この私の傷と同じくらいに傷ついていたのだ。

そんな少年を殺人者にするわけにはいかない。

なぜ、そんな思いが湧いてきたのか、それはいまだに私にも分かりません。

しかし、その思いが私の命を守ったのだと感じています。




バスはどのくらい走ったのでしょうか。

うっすらとしか意識がないまま床に座り込み、傷の浅かった右手で体を支え、左手は心臓より高い位置にと思ってひじ掛けに置いていました。

そうして数時間が経過した頃です。

バスの速度が落ちたのを見計らって、2人の乗客が窓から飛び降りました。

すると少年は「連帯責任」という意味なのでしょう、塚本先生を2回刺しました。

倒れ落ちる先生を見ながら、私は直感的に「突っ伏したら死んでしまう」と思いました。

「先生、起きて!」と心の中で何度も叫びましたが、自分の体もままならず、どうすることもできませんでした。

広島に入り、パーキングエリアでバスは止まりました。

少年と警察とのやり取りが続いていましたが、詳しくは分かりません。

しかし、怪我をしているということで私は他の乗客の方よりも先に窓から救出されました。




助かった。

その瞬間はそれしか思い浮かびませんでした。

極度の緊張感から解き放たれた私は他の乗客の皆さんのことにも、一緒にいた塚本先生のことにも思いが至りませんでした。

痛い、つらい、怖い、そういうすべての感情が固まって押し寄せ、訳が分からない状態です。

搬送される救急車の中で「もう1人の方はダメだったみたいだなあ」

と職員同士の会話を聞いた時、「そうか。塚本先生は亡くなったんだ…」と、情報だけが体の中を通り過ぎていきました。




塚本先生との出会いは、一番上の息子が4歳の時にさかのぼります。

小学校の教員だった先生は、偏差値教育や受験戦争など現代の学校教育のあり方に疑問を感じて退職。

独自に幼児教室を主宰され、「この世に生まれて初めて出会う教師は母親である」という考えから、子どもたちとお母さんのための教育に専心しておられました。

先生は常々「子どもは自ら育つ力を持って生まれてくる。 大人はそれを援助するだけでいい」とおっしゃっていましたが、この教えが私の子育ての指針となり、特に娘が不登校に苦しんでいた時代には大きな支えになりました。

娘は小学校の時に不登校となり、その後は通えたものの、中学に入るとまた行けなくなってしまいました。

一番苦しいのは娘だと分かってはいるものの、周囲から子育てが悪かったからこうなったと思われたり、この子の将来はどうなるんだろうと不安になったりと、親として娘を受け入れられない時期もありました。

しかし、「子どもには自ら育つ力がある。大人はそれを援助するだけ」という塚本先生の教えがあったからこそ、娘が自分で立ち上がるまで待つことができたのではないかと思うのです。

事件から1か月半、私は広島の病院に入院し、治療とリハビリに励みました。

結局、私は少年によって10数か所刺され、場所によっては、あと少し傷が深かったら死んでいたかもしれないとお医者様は言いました。

私自身、もしも床に倒れていたら、間違いなく出血多量で死んでいたと思っています。

それゆえ、事件の直後は体のあちこちが張り裂けるように痛く、あまりのきつさに、いっそあの時死んでいればよかったと思うほどでした。

時間がたつにつれ、少しずつ加害少年の素性は私にも伝えられました。

少年は娘と同じ17歳、高校は不登校の末、退学…。

「ああ、彼も苦しんでいたんだ」と思いました。

バスの中で、少年が最初に逆上して言ったあの「俺の話を聞いていない!」という言葉。

きっと彼は十七年間、ずっと心の中で「話を聞いてほしい」と訴えていたのでしょう。

しかし、それに耳を傾けなかった周囲の大人たち。

少年は事件によって加害者になりましたが、それまではずっと大人社会の被害者だったのだと感じたのです。




その後、山口さんは「彼にも居場所があったら、こんなことにはならなかったかもしれないね」という友人の言葉を聞いて、小学校に通えない子供や、成人して引きこもってしまった人などのために、親子の居場所づくりを目指す会を立ち上げられます。




死後、塚本先生は私やご遺族に1つの言葉を残されました。

「たとえ刃で刺されても恨むな。恨みは我が身をも焦がす」

これは事故の直後に、先生のご子息が「母の財布に入っていたおみくじの言葉です」と言って教えてくれたものでした。

「母は遺された者たちの心のありようまで示唆して逝ってくれました」とおっしゃった時、あの日の先生の驚いた様子を思い出し、もしかしたら先生はきょうここで、ご自分の命が尽きることを察知したのかもしれない。

そう思いました。

少年によって深い傷を負い、いまも傷あとや後遺症が残る私が、恨むどころか、少年のほうが被害者だと主張するのを聞いて、「山口さんは強い」とおっしゃる方もいます。

しかし「恨みは我が身をも焦がす」という言葉を思うと、実は私は楽な生き方を選んだのではないかと思うのです。

そして、すべての出来事には意味がある。

事件もまた、私にとっては必要な出来事だったと受け止めています。
  1. 2012/09/21(金) 09:49:40|
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9.11

2001年9月11日

ニューヨークのマンハッタン島で、世界貿易センターの2棟の高層ビルがテロリストの攻撃を受け、多くの人命が奪われました。

同時多発テロと言われた「9・11事件」です。

事件が起きてから1ヶ月後、日本全国から11人の消防官が集まって、まだ混乱の残る被害現場で消防・救助活動を手伝うために海を渡りました。

この11人の消防官たちは、日本政府や消防庁が派遣したのではありません。

自らの意思で、休暇をとっての「ボランティア」でした。

この年の6月に『世界警察・消防競技大会』がアメリカで開催されましたが、そこに、日本の代表として選ばれて出場した、世界レベルのトップ技術を持った消防官たちです。

大会で知り合ったニューヨークの消防官から、「仲間が行方不明になっている。助けて欲しい」というSOSのメールが入ったのです。

横浜市の消防局に勤務する志澤公一さんは、それを読むと、一緒に競技大会に出場したメンバーに声をかけました。

そして、11人の消防官が集まったのです。

現場に急いだのですが、アメリカ政府は「消防」の目的とはいえ、事件が起きた中心部への外国人の立ち入りは、厳しく制限していました。

規制線の張られた外側で、もどかしい思いで情報の収集を行なっていると、一人の高齢の牧師さんと出会いました。

その牧師さんは、志澤さんたちが日本から駆けつけた消防官だと知ると、こんな話を始めました。

「私が第二次世界大戦に参加した兵士だったとき、沖縄に上陸して日本人に銃口を向けたことがあります。

それなのに、その日本から我々を助けにきてくれている。

心から感謝します。

ぜひ、あなたたちに手伝っていただきたい」

その牧師さん、実は、ニューヨークの消防官のOBでもあったのです。

そして、すぐに異例ともいえる特別な許可が出て、牧師さんが案内するままに、立ち入りのきびしく制限された現場の中心部にまで入ることができたのです。

その日の作業が終わって、11人の消防官たちはホテルへと引き上げることになりました。

そして道を歩いていると、驚くようなことが起きたのです。

道ですれ違うアメリカ人たちが、志澤さんたちの姿を認めると、駆け寄ってきて、口ぐちに「サンキュー・ベリーマッチ」と声をかけ、時には「ありがとう」と日本語で話しかけて、さらに握手を求める輪ができたのです。

実は11人の活動を、地元のテレビ局が報道していたのです。

しかし、さらに驚くようなことが起きます。

夜、地元ニューヨークの消防官が、今回の活動をねぎらうため、簡単な夕食会をしてくれたときのことでした。

大きなレストランの片隅の席につき、注文を決めていると、突然、店にいた男性が立ち上がり、店内に向かって大きな声で叫んだのです。

「みんな聞いてくれ!

日本から私たちを助けにきた消防官のボランティアが、ここに座ってるんだ!」

それまでにぎやかだった店内が一瞬、静まりかえると、次にはすべてのお客さんが、ナイフやフォークを置いて立ち上がり、拍手をしたのです。

最大の賛辞(さんじ)を贈るという意味が込められた「スタンディングオーベーション」です。

そして、数分間も続いた「拍手」も鳴りやみ、ではあらためてとメニューを開いていると、注文をしていない、食べきれないほどの料理が次から次へとテーブル上に並んだのです。




という話しをラジオ番組の『上柳昌彦のお早うGood Day!』で紹介されました。

日本においても、東日本大震災で活躍し、引き上げる自衛隊員の方々に、横断幕で「ありがとう」と書き、拍手で送るというシーンがたくさんの場所で見られました。

そういった気持ちと行動は大切ですよね。

今日は9月11日なんでこの話しを紹介しました。
  1. 2012/09/11(火) 12:55:05|
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「祈りの手」


「祈りの手」という有名な絵があるのをご存じでしょうか。

アルブレヒト・デューラー(1471年から1528年)というルネッサンス時代の優れたドイツの画家が描いた作品です。

その作品にまるわる感動的な話です。




いまから500年ほど前、ドイツのニュールンベルグの町にデューラーとハンスという若者がいました。

2人とも貧しい家に生まれ、小さな時から画家になりたいという夢を持っていました。

2人は版画を彫る親方の元で見習いとして働いていましたが、毎日忙しいだけで絵の勉強ができません。

思いきってそこをやめて絵の勉強に専念したいと思いましたが、絵の具やキャンバスを買うお金もままならないほど貧しく、働かずに勉強できるほど余裕はありませんでした。




ある時、ハンスがデューラーに1つのことを提案しました。

「このままでは2人とも画家になる夢を捨てなくてはいけない。でも、僕にいい考えがある。2人が一緒に勉強はできないので、1人ずつ交代で勉強しよう。1人が働いてもう1人のためにお金を稼いで助けるんだ。そして1人の勉強が終わったら今度は、別の1人が勉強できるから、もう1人は働いてそれを助けるのだ。」

どちらが先に勉強するのか、2人は譲り合いました。

「デューラー、君が先に勉強してほしい。君の方が僕より絵がうまいから、きっと早く勉強が済むと思う。」

ハンスの言葉に感謝してデューラーはイタリアのベネチアへ絵の勉強に行きました。

ハンスはお金がたくさん稼げる鉄工所に勤めることになりました。

デューラーは「1日でも早く勉強を終えてハンスと代わりたい」とハンスのことを思い寝る時間も惜しんで絵の勉強をしました。

一方残ったハンスはデューラーのために早朝から深夜まで重いハンマーを振り上げ、今にも倒れそうになるまで働きお金を送りました。

1年、2年と年月は過ぎていきましたがデューラーの勉強は終わりません。

勉強すればするほど深く勉強したくなるからです。

ハンスは「自分がよいと思うまでしっかり勉強するように」との手紙を書き、デューラーにお金を送り続けました。

数年後ようやくデューラーはベネチアでも高い評判を受けるようになったので、故郷に戻ることにしました。

「よし今度はハンスの番だ」と急いでデューラーはニュールンベルクの町へ帰りました。




2人は再会を手を取り合って喜びました。

ところがデューラーはハンスの手を握りしめたまま呆然としました。

そして、泣きました。

なんとハンスの両手は長い間の力仕事でごつごつになり、絵筆がもてない手に変わってしまっていたのでした。

「僕のためにこんな手になってしまって」と言ってデューラーはただ頭を垂れるばかりでした。

自分の成功が友達の犠牲の上に成り立っていた。

彼の夢を奪い、僕の夢が叶った。

その罪悪感に襲われる日々を過ごしていたデューラーは、「何か僕に出来ることはないだろうか」

「少しでも彼に償いをしたい」

という気持ちになり、もう一度、ハンスの家を訪ねました。





ドアを小さくノックしましたが、応答はありません。

でも、確かに人がいる気配がします。

小さな声も部屋の中から聞こえきます。

デューラーは恐る恐るドアを開け、部屋に入りました。

するとハンスが静かに祈りを捧げている姿が目に入りました。

ハンスは歪んでしまった手を合わせ、一心に祈っていたのです。




「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。自分を責めています。神さま、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。そして、私が果たせなかった夢も、彼が叶えてくれますように。あなたのお守りと祝福が、いつもデューラーと共にありますように」

デューラーはその言葉を聞いて心打たれました。

デューラーの成功を妬み恨んでいるに違いないと思っていたハンスが、妬み恨むところか、自分のことより、デューラーのことを一生懸命祈ってくれていたのです。

ハンスの祈りを静かに聞いていたデューラーは、祈りが終わった後、彼に懇願しました。




「お願いだ。君の手を描かせてくれ。君のこの手で僕は生かされたんだ。君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ!」




こうして、1508年、友情と感謝の心がこもった「祈りの手」が生まれました。




という話しです。
ハンスは、デューラーのために働き、お金を送り続けたが、ハンスの絵描きになりたいという夢は実現できませんでした。
でもハンスのおかげでデューラーは、世に出て認められ、多くの作品を描くことができました。
ハンスがいなければ、デューラーの作品は生まれなかったかもしれません。
しかも、ハンスが自分のしてきたことに納得しています。
陰ながら支え、応援してくれている人がいたからこそ成功したのだと思います。
寛い心をもち、人の幸せを願う、素敵な話しです。
  1. 2012/09/09(日) 16:34:13|
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